末期の水とは
末期の水とは死に際もしくは亡くなったばかりの人に人生最後の水を口に含ませることで、死に水とも言います。
末期の水の由来
「長阿含経」には釈迦が入滅する時に「口が乾いたので水を持ってきて欲しい」と弟子に頼んだところ濁った水ばかりで綺麗な水が用意出来なかったことから、雪山の鬼神が鉢に浄水を酌んで捧げたという説話があり、「末期の水」の由来とされます。
人生最後の水
私達は生きている間にどれだけたくさんの水にお世話になったことでしょう。
私達は一日で約300リットルの水を使っていますが、100歳まで生きたとしたら
300×365×100=1,095万リットルになります。
25メートルプール一杯分の水が約54万リットルですから
私達は一生の間に25メートルプール約20杯分の水を使っているのです。
それだけたくさんの水の中でも末期の水は、本当に人生最後の水になるのです。
水の役割
水には浄化の役割があって穢れを洗い清めます。
神社でも寺院でも手水舎で身口意を清めてから参拝します。
滝行や禊は精神の鍛錬と浄化のために行います。
火にも浄化の役割があって、お焚き上げ供養の本尊が不動明王であるのは悪業を焼き尽くすからです。
魂が抜けてしまった死者には魔物が付きやすいことから、お清めの意味があるとも言われています。
喉の渇き
仏教では欲望のことをサンスクリット語でタンハー(Taṇhā)と言い、「喉が渇いた」状態であると説きます。
旅人が旅をしていて喉が渇いたら水が欲しくなって探し回ります。
喉が渇いた状態は苦しくて仕方ないので、一刻も早く水を飲もうとします。
やがてやっと飲み水にたどり着き、喉の渇きが収まるまで飲んだら満足します。
一休みしてからまた旅に出ますが、やがてまた喉が渇いて水を探し回るのです。
欲望は喉の渇きと同じで、満たしても満たしてもまた欲しくなることを繰り返しているだけなのです。
満足の状態が何時までも続けば良いのですが、現実はそうはいかないのです。
亡き人がもし喉が渇いた状態で亡くなったとしたら、水が欲しいと言う気持ちが何時までも残るでしょうから、満足させて差し上げるために水を手向けるのです。
死者は以後はもう喉が渇かないのですから。
末期の水のとりかた
末期の水の取り方は、新しい筆の穂先か、割りばしの先に新しいガーゼや脱脂綿を白糸でくくりつけたものを茶碗の水に浸し、故人の唇を潤します。
茶碗やお椀はなるべく白いものを使い、樒(しきみ)の葉を浮かべる習慣がある所では、樒の葉の尖った先の方を死者の唇に軽く付けて潤わせます。
末期の水の順番は配偶者、そして故人とのつながりが濃い順に行い、臨終に立ち会った人全員が行います。
「お疲れさまでした、ゆっくりお休み下さい、喉が渇いたでしょう、お水をどうぞ」
このように気持ちで行います。