不瞋恚について
不瞋恚とは腹を立ててはいけない、自分を見失ってはいけないということで、身(体の行い)、口(口で発する言葉)、意(心で思う事)の規律である仏教の十善戒の中で、意業(心で思う事)に関する規律の一つです。
「瞋恚」とは
「瞋恚」とは「瞋」が怒り「恚」が恨むことです。
「瞋」も「恚」も心の作用で、怒りの心は恨みになり、恨めば恨むほど怒りの炎はメラメラと燃え盛ります。
瞋恚が良くない理由
怒りも恨みも心の中の炎がメラメラと燃え盛る状態であり、相手を絶対に許さない、苦しめてやる、攻撃してやる、仕返ししてやる、という気持ちに支配されてしまいます。
そういった気持ちは争いになり、喧嘩や戦争にまで発展するのです。
怒りの発端は相手から
- 嫌な態度をされた
- 嫌な言葉を掛けられた
- 無視された
- 罠にはめられた
- 大切なものを盗られた
- 失敗を私のせいにされた
- エラそうな態度を取る
- バカにされた
などの理由によりますが、相手に何かされることによって怒りの火が着くのですが、自分自身が嫌になってしまって自分の内面に対して怒りが向いてしまいますと、怒りのやり場がなくなってしまって鬱になったり、精神が不安定になったりします。
仏教では心を静めて正しく物を観ることを説きますが、怒りや恨みは心の灯が燃え盛って冷静さがなくなり、正しい判断が出来なくなるのです。
間違った判断の行きつく先に戦争があるのです。
究極の恨みは丑の刻参り
丑の刻参りとは人を不幸にしたり、命を奪ったりする呪いの作法で、丑の刻(午前1時~3時)に白装束と一反の帯、下駄履きで、頭には灯した三本のロウソクを鉄輪に差して被って神社に行き、ご神木に呪う相手に見立てた藁人形を五寸釘で打ち込むことを7日間続ければ相手が死ぬと言われています。
丑の刻参りで願いが叶ったとしてもそれはとても恐ろしいことで、やがてその恨みは自分に跳ね返ってきます。
瞋恚の反対は「慈悲」です
怒りや恨みの燃え盛る炎で支配された心は正しい判断が出来なくなります。
怒りや恨みの先には地獄の世界が繋がっています。
地獄の世界には怒りと恨みしかないので、常に炎に包まれて、皆が苦しむばかりの世界です。
仏の心は常に静まり返った湖のようで、波人つ立たない状態、鏡のような状態です。
仏の世界には慈悲が満ち溢れていて争いが無く、他を思う仏ばかりの世界なのです。
心が穏やかで居られる世界、戦争の無い平和な世界です。
正しい心とは
私達の世界では多くの人が関わっていますので、人間関係は避けて通ることが出来ません。
多くの人と関われば当然人間同士の好き嫌いや人間関係に巻き込まれて誰でも必ず嫌な思いをして、尚且つ我慢し続けているのです。
私達の社会には怒りや恨みが蔓延し、どうしても冷静な心を保つことが困難になってしまいます。
しかし怒りや恨みというものは元々心の作用なので、気にすれば支配されますし、気にしなければ支配されることはありません。
仏教では「執着しないこと」を説きます。
執着しないことは拘らないことで、気にしないことなのです。
相手にバカにされたからと言って何時までも恨んでいても何の徳にもならないと説くのです。
恨みは次の恨みを生むだけなのです。
プライドがあるから許せないのです。
プライドがあっても死後の世界には何の役にも立ちません。
一旦プライドを捨ててしまえば、実にバカげたことに拘っていた自分に気が付くはずです。
正しい心を持ちましょう。