悔しい、口惜しい
悔しい、口惜しいはどちらも「くやしい」ですが、悔しいは物事が思い通りにならなかった時の後悔する気持ちのことで、口惜しいは物事がうまくいかず残念な気持ちのことです。
悔しい
物事が自分の思い通りにならなかったり、人からはずかしめを受けたような時に生じる後悔する気持ちのことです。
思い通りにならない時
受験に失敗した、会社の仕事で大きなミスをした、試合に負けたなどで、歯ぎしりをしたりハンカチを噛んだり、こぶしで机を叩きながら泣くなどの行動になります。
勝負事や試合などは誰しも勝つことを目指して臨みますが、勝つ人も居れば負ける人も居る訳で、勝った者は嬉しく、負けた者は残念な気持ちになるものです。
勝って喜ぶことをイメージして臨んだのに負けてしまいますと、その喜びのイメージが勝者によって見事に壊されるのですから、勝って喜ぶ勝者を腹立たしいと思うと共に自分自身が残念な気持ちになるのは当然で、世の中というものは勝負必勝、常に勝負の世界で勝者と敗者が比較される世界なのです。
負けてしまったり失敗したりなどの結果に対しては後悔することになります。
はずかしめを受ける
報告会で予想外の指摘を受けて答えることが出来ず多くの人の前で恥をかいた、友達から仲間外れにされた、人から悪口を言われたり非難されたりなどではずかしい、惨めな思いをすることがあります。
俗にいう「穴があったら入りたい」ような時です。
特にプライドの高い人が恥をかくような事態の時には、本人のプライドが見事に崩れ去って残念がりますので、普段から快く思っていない人からすれば「ざまあみろ」と思われる訳で、恥さらしというものは見物する客からすればとても愉快なものなのです。
多くの人の前で恥ずかしい思いをした場合の後悔の気持ちはより深いものになりまする
口惜しい
口惜しいとは後悔されることで「くちおしい」と言っていたものがいつの間にか「くやしい」になったものです。
また「口惜しい」は「朽ち惜しい」が語源であるとも言われています。
生き物や物が時間の経過と共に朽ち果てていくことが残念であるという感情であり、物質が時間と共に朽ち果てていくという現象は私達にとって「どうしようも出来ない事」であり、何時までも若くありたい、或いは何時までも新しくありたいという願望に対して「思い通りにならない事」なのです。
何時までも若くありたい、気に入った物は何時までも新しくあって欲しいというのは私達人間の勝手な要望なのですが、仏教では「諸行無常」と言われるように、物事は常に移り変わっていき、永遠に続くものは何一つないことを説くのです。
仏教と悔しさの感情
仏教に於ける悔しさの感情の説話として釈迦の十大弟子の一人である周利槃特(チューダ・パンタカ、しゅりはんどく)の話が有名です。
記憶力が大変に悪く、勉強が出来なかったチューダ・パンタカは四か月を過ぎても一つの句さえも覚えることが出来なかったそうで、自分の無能さを恥じたチューダ・パンタカはやがて教団を去ろうと釈迦に相談します。
釈迦は「自分を愚かだと知っている者は愚かではない。自分を賢いと思い上がっている者こそ、本当の愚か者である」と説き、彼に一枚の布(または箒)を与えて、「塵を除く、垢を除く」と唱えさせて精舎を掃除することを教えました。
以後チューダ・パンタカは釈迦のこの教えを守りただひたすらに掃除をし続けて阿羅漢果の悟りを得ることが出来たのです。
自分を愚かだと知っている人は他人と競争することはありませんので悔しい思いをしませんが、自分自身の出来の悪さに対しての悔しい思いがあるのですが、釈迦はこの自分自身に対する悔しさをも捨てて、只ひたすらに掃除という修行を続けなさいと説き、悟りを得ることが出来たのですから、賢いとか愚鈍などの比較をすることに意味がないのです。
むしろ自分を賢いと思い上がってプライドを持ち、他人を見下げたりプライドを守ることばかりに集中することこそ悟りを邪魔することなのです。
世間一般では口惜しさをバネにして努力することこそ成功への秘訣とされていますが、自由主義の競争社会では悔しさの感情は、生活が豊かになるためには是非とも必要なことです。
しかし現実社会ではその悔しさが邪魔をして他人を傷つけたり病気になったり、時には死まで追い詰められることも多いのが事実です。
自分を愚かだと知り、競争を止め、他人の苦しみを取り除き、楽を与えることで悔しさの感情は無くなるはずです。
せめて自分の周りだけでも、家庭の中だけでも悔しさの無い安楽で癒される雰囲気を作り出し、その雰囲気を少しでも広げていきましょう。