信仰とは

信仰のイラスト

信仰とは神や仏、そして神仏の世界を疑うことなく信じて敬い、その教えを自らの生きる指針とすることです。

信じる者は救われる

僧侶の説明のイラスト

神仏や御先祖様という存在は私達の眼には見えない存在であり、信じない人は決して見ることが出来ませんし、見ようともしませんが、信じる人はその存在が分かるようになってきますので、何時か必ず救われるのです。

死後の世界にしても無いと言い切ってしまう人に死後の世界はありませんが、死後の世界を信じている人は死後にその世界に行くことが出来るのです。

私達の住む地球につながる広大な宇宙にしてもずいぶんと遠い世界の詳細や過去の宇宙の姿が科学で証明出来るようになりましたが、それでも未だに宇宙が有限であるのか無限であるのか、そして宇宙の始まり、そして終わりなど私達の知識では決して分からないことばかりなのです。

私達が今実際に見ている世界は大宇宙の中のほんの一部にすぎません。

実は眼には見えない世界の方が遥かに広くて大きいのです。

釈迦の教え

貧者の一灯

釈迦は実在の人物でしたが、生きている人間でありながら悟りを得て仏(如来)になったので、もう人間の世界に戻ってくることはありませんが、釈迦の教えは私達の眼に見える姿ある人間としての教えでもあり、同時に眼には見えない如来の教えでもあるのです。

眼には見えない如来が私達に法を説くなんてあり得ないと思う人でも、釈迦のような実在の人物が説いた教えであるならば現実味を帯びてきて分かりやすいのです。

私達は「眼、耳、鼻、舌、皮膚」による「視る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる」の五感で世界を捉えていますので、眼で視る、耳で聴く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、肌で触れるという感覚で捉えられるものなら信じることが出来るけれど、五感で感じることが出来ないことは信じることが出来ないのが普通です。

ところで釈迦が仏になったことで私達凡人とは決定的に違う所があるのですが、それは第三の眼があることです。

第三の眼とは仏の眉間の所に付いている眼で、物を見るための二つの眼の他に、特殊な能力を持ったもう一つの眼のことで、悟りを開いた者が得ることの出来る能力で、真実を観ることの出来る眼であり、私達の眼に見える世界の真実はもちろんのこと、私達の眼に見えない全ての世界の真実が見えますので、仏は大宇宙の真実を知る存在なのです。

信じること

往生極楽のイラスト

私達の眼に見えない神仏や御先祖様のことを信じなさいと言われても、信じるつもりのない人や、そんな世界ある訳ないと思っている人にとっては迷信みたいなものですから、普通に生きていくには眼に見えない世界なんて必要の無いことかもしれません。

しかし私達は長い人生の中で誰しも言葉で説明できないような不思議な経験をしたことがあるはずですが、それは眼には見えない世界からのメッセージかもしれません。

私達の世界と眼に見えない世界とは繋がっていたり交差していたりで、普段は気が付かないのですが、例えば六道にしても動物の世界は私達人間の世界とほぼ同じ階層にあって私達の眼に見えますが、人によっては餓鬼の世界や阿修羅天の世界が見える人も居ますので、そういう人からした普通の人には観えない世界が現実にあるのです。

眼に見えない世界は信じることで見えるようになってきます。

宗教で最も大切な事は信じることで、法然親鸞南無阿弥陀仏を強く信じることで必ず救われると説き、信じて疑わない強い信仰心を持つことで今でも多くの人が救われているのであり、それが信仰なのです。

毘沙門天信仰は

多聞天と毘沙門天の写真

私は個人的な御縁があって毘沙門天を信仰していますが、毘沙門天は天の世界に居られるので私達の世界の隣の世界、すぐ傍で活躍されていますので、とても身近な神なのです。

毘沙門天信仰は私達に対して家族としての幸せを説き、人生を豊かにしてくれます。

高い位に居られる浄土に居られて私達凡人が仏の世界に到達するには果てしなく遠い世界に居られますが、天の世界の神は庶民的な願い事を聞きながらも少しでも高い世界へと私達を引き上げようしているので、とても厳しい神ではありますが、私達の出来の悪さをよく分かって下さり、とても寛大な対応をして下さるのです。

毘沙門天信仰の極意は信じることで、毘沙門天王功徳経にも説かれていますが、名号(真言)を数多く唱える事です。

毘沙門天王功徳経には「もし毘沙門天王の姿を見たり名を唱えたり心に念ずるような者がいれば、果てしない輪廻転生の中で犯した罪を取り除いて、仏の位に至り、この世では無限の福を得ることができる」と私達が何をすれば良いのかを説いているのです。

南無阿弥陀仏でも只一回唱えるだけでは成仏は程遠く、唱えて唱えて唱え続け、気が付いたら自分が南無阿弥陀仏になった時にようやく救われるのです。