神頼み
神頼みとは神様に対して祈って加護を願うこと。
苦しい時
釈迦は私達人間は生まれた時から生老病死の四つの苦しみ(四苦)を背負っていることを悟り、生きている限り四苦から逃れることが出来ないと説きました。
私達は輪廻転生という魂の輪廻の輪から抜け出さない限り、六道の中でいくら生まれ変わったところで永遠に苦しみ続けるのです。
この苦しみの輪から抜け出すには仏になるしかないのですが、仏になる方法を示した人は誰もいませんでした。
この四つの苦しみから逃れる方法を獲得すべく多くの宗教者たちが難行苦行を繰り返していたのです。
私達は楽しい時もあるけれどむしろ苦しい時の方が多く、病気や事故、災害などの苦しみはいくら気を付けていても襲ってきて、自分ではどうにも出来ない無力さを感じてしまいます。
飢饉の時に救ってくれたお地蔵様、旱魃の時に雨を降らせてくれた龍神様など、苦しい時には必ず神様が助けてくれる、そういう信仰が古より続いているのです。
神頼み
私達の世界は眼で見て耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌で感じる五感で捉えられた世界であり、他の人の五感と共通性があることから同じ世界の中で生きていることを実感するのですが、私達の世界観や宇宙観というものは私達が持っている五感で感じられたごく限られた世界の事であり、実際には眼には見えない世界、耳には聞こえない世界の方が遥かに広大な世界であって、その中に神々の世界が存在するのです。
私達は普段は神々のことを見ることが出来ませんし、身近に居ることを感じることが出来ませんので神様のことをすっかり忘れているのですが、困ってしまって自分ではどうにも出来ない時に初めて神様に頼むことを思い出すことはある程度仕方ないのかもしれません。
しかし神様にしてもそんなに甘い方ではありません。
普段はすっかり忘れてしまっているくせに、困った時だけ頼むということは「虫が良すぎる」ことであり、自分の都合しか考えていない自分勝手な頼み事は中々聞いてもらえないのです。
理想の神頼み
私達が困った時には誰でもいいから助けて欲しいと願うもので、早く苦しみから逃れて楽になりたい気持ちは誰もが同じです。
しかし神々としては困った時だけの人助けが仕事ではなく、衆生の魂の向上が本来の仕事ですから、普段から神々と接していることが大切で、魂を向上させる努力をしている人に対してさりげなく支援して下さるのが神様なのです。
私達の身近な所に居られる毘沙門天の場合には信心深い人の願いは叶えられやすいですが、可能な限り願い事は言わずに「何時も有難う御座います」の感謝を述べるだけにしていれば、自然と願いを叶えてもらえます。
私達の願い事位は言わなくても分かって居られるのです。
願い事が叶わない、神様から嫌われるのは
- 自分の事しか言わない
- 効果がありそうなら頼む
- あちこちの神様に頼みまくる
- 叶わないと文句を言う
- 頼むだけで自分は何もしない
などで、人であってもこういった頼み事はお断わりすることでしょう。
理想の神頼みは「何時も有難う御座います、今日も一日宜しくお願い致します、どうかお力を授けて下さり御護り下さいませ」これだけで充分なのです。