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自業自得とは
自業自得とは自分の為した行いの結果を自分が受けることで、原因に応じた結果が報いる「因果応報」と共に仏教の根幹をなす思想です。
自分が蒔いた種は自分で刈り取る
種と言うものは適切な時期に撒けば芽が出て成長し、綺麗な花を咲かせたり、甘い果実が収穫出来たり、おいしい野菜として収穫出来たりするもので、種を蒔くという行いは、刈り取るということに繋がります。
「自分が蒔いた種は自分で刈り取る」という言葉は、自分が始めたことに対して、最後まで自分で責任を取りなさいよ、という戒めとして使われることが多いのですが、人と言うものは結構、思い付きで突然何かを始めてみたものの、途中で気が変わったり、飽きてしまったり、失敗したりして、片付けもせずに放ったらかしにしていることが多いものです。
思い付きで始めたことであっても、人に迷惑にならなければ特別に問題になることはありませんが、人に迷惑を掛けてしまうような事態になれば、始めた人が責任を取らなければいけないことは、世の中的に常識というものです。
しかし敢えて諺になっているということは、自分で蒔いた種を人のせいにしたり、人に刈り取らせたりする人が昔から多いということでもあるのです。
善悪の結果も自分が受ける
釈迦はこの世に起こる原因と結果について、次のように説いています。
- 善因善果
- 悪因悪果
- 自因自果
善い原因は善い結果となる、悪い原因は悪い結果となる、自分が作った原因は自分に結果として現れる。
この教えが仏教の教えの基本であり、良いことも悪いことも全て自分が作った原因は自分に現れるのです。
人のせいにしてはいけない
私達は何か悪い結果が起こった時に、どうしても人のせいにしてしまいますが、ある意味自分を守るという本能的な行為であって、自己防衛本能とも言われますが、自分に原因があることを人のせいにすることは罪作りなことです。
例えば家の床の間に置いてある高価な壺を、兄弟で遊んでいる時に倒して壊したような場合には、お互いに相手のせいにしたり、或いは犬猫のせいにしたりしがちです。
またほとんどの方が、欠けてしまった破片をボンドでつけたりした過去をお持ちだと思います。
自分で為したことに対する責任は自分で取るということは仏教の基本であり、こういった場合には素直に謝るのが一番なのです。
ガラスをを割ったり、壺を壊したりなど、子供の為したことならまだしも、大人になっても自分の為した失敗に対して自分では決して責任を取らない政治家が居たり、事故を起こしても車のせいにしたり、世相のせいにしたりする大人になってはいけません。
人の手柄をとってもいけない
少し前に「倍返しだ!」という銀行を舞台にしたドラマが流行りましたが、悪に立ち向かうという意味では悪を成敗するドラマは見終わったらスッキリするものです。
会社という大きな組織の中では上に上がろうと思えば、お互いに足の引っ張り合いで相手のことを陥れたり、相手の手柄を盗ったりということが日常茶飯事ですが、人が努力して積み上げた行為を横取りして、自分の手柄にしてしまうこともいけません。
自業自得と言う意味では、「人の物を横取りした」ということに対する結果が現れるということになります。
結果がすぐに現れる訳でない
世の中には納得いかないことが多々あるものです
- 悪事の限りを働いている人が、贅沢で派手な生活を続けている
- 私の方が仕事が出来るのに付き合いの上手い人ばかりが出世する
- まじめに働いていても何一つ報われない
- 家族のために働いても全く感謝されない
- 仕事上の不具合を報告したら自分のせいにされた
- 親の遺産の処分を兄弟に任せたら全部取られてしまった
など、どう見てもおかしいではないかということばかりで、真面目に努力するよりも、悪事を働いてでも上手に世渡りした方が幸せなのかもしれないと思ったりするのです。
しかし世の中の原因に対する結果はすぐに現れるものではなくて、時間が経って現れたり、或いは知らないうちに結果に繋がっていたりするのです。
原因と結果と言う意味では、私達が生きている間に必ずしも起こる訳ではありません。
場合によっては私達が生きている間には結果が出ることなく、次の、或いはその次の転生先で起こるかもしれないというのが仏教の定理なのです。
しかし、今の世の中で結果が出ないのなら、悪いことをしても構わないだろうと考えるのは浅はかな考えであり、何時かは分からないけれど自分の身に降りかかるということだけは事実なのですから、悪いことをせずに善いことをするのは今の自分のためであり、将来の自分のためでもあるのです。
結果の現れ方
善い行いをすれば善い結果となり、悪い行いをすれば悪い結果となるのであれば、善い行いをたくさんした方が良さそうだから、人をたくさん雇って慈善事業をやらせよう、という発想も生まれます。
その答えは釈尊の伝記に登場する「長者の万灯より貧女の一灯」に見ることが出来ます。
マガダ国の国王である阿闍世王は耆闍崛山(ぎじゃくっせん)という場所で釈迦に飲食を施し、祇園精舎まで送ったその後で、祇婆(ジーヴァカ)大臣に、次は釈迦に何を施したら良いかを尋ねたところ、灯明が良いのではと提案されました。
そこで王は100石の麻油を祇園精舎に届けさせ、夜にはたくさんの灯明が灯されました、これが長者の万灯です。
王の善行を聞いて感激した村の貧しい女は、自分も何かしなければと乞食をして、僅かのお金を得て少しばかりの灯油を買い、釈迦の前で点灯し、どうか消えませんようにと願って帰路についたのです。
その夜は風が強く、王の施した灯明は朝までには消えてしまうか油が切れて燃え尽きてしまいましたが、貧しい女の一灯は朝まで消えることなく、そして油もまだ残っていたのです。
釈迦は弟子の目連に明るくなったので灯明を消すように命じましたが、いくら消そうとしても消えることなく火は大きくなるばかりで、ついには三千世界を明るく照らしたそうです。
自業自得は平等
自業自得の法則は誰にとっても平等であり、善い行いは自らの徳になり、悪い行いも何時かは必ず自分の報いとなります。
この法則は誰にとっても平等であり、身分や経歴などに関係しません。
お金があっても無くても、有名な人であっても無名な人でも善い行いは善い結果として、悪い行いは悪い結果として現れるのですから、全ては自分のために行うことであります。
更には善い行いは他の人に対して喜びや感動、安心を与えることから、善い功徳になり、神仏や先祖に対しての善い行いは供養となって自らの功徳にもなるのです。
自業自得の効果的実践法
自業自得は自分の行いが自分に報いるということで特別に実践するようなことはありませんが、正しく実践すれば仏道の修行になります。
五戒が善悪の目安
五戒とは仏教の在家信者が守るべき戒のことで、五戒の中でどれか一つでも守れなかったら破戒行為となり、悪行になってしまいます。
悪行は悪い結果を生み出すのです。
在家信者が守るべき五戒で言いますと
- 不殺生戒-ふせっしょうかい- 殺生をしない
- 不偸盗戒-ふちゅうとうかい-盗みをしない
- 不邪淫戒-ふじゃいんかい-淫らなことをしない
- 不妄語戒-ふもうごかい-うそをいわない
- 不飲酒戒-ふおんじゅかい-お酒を飲まない
つまり悪行「してはいけない事」を説いているのです。
善い行いを実践するには五戒を守ればよいのです。
人と比べるべからず
- あの人はあんなに悪いことをしていても幸せそうなのに、何故私はこんなに不幸なんだろう。
- 頑張っている人が皆評価されるのに、何故私は評価されないのだろう
結果として善いか悪いかは、人と比べてみたらよく分かるものですが、人と比べることはお勧めいたしません。
仏教の原理としてもう一つ大切なことは「人は人、自分は自分」なのです。
自分が幸せであるか不幸であるかはそもそも、人と比べるようなことではなくて、自分が幸せだと思えば幸せであり、不幸だと思えば不幸なのです。
もう一つ言えば、自分が不幸だと思っていても、少し見方を変えれば不幸ではなかつたりするのです。
自分が幸せか不幸であるかは自分で決めることであり、多少はふこうであっても幸せだと思えば幸せになるのです。
思いは形になる
自業自得で大切なことは、「思いが形になる」ということで、結果が伴うことは、何かをしたという行為だけではなくて、自らの思いが形になるということ、つまり「幸せになりたい」と願い、祈ることが具体的な形になるのです。
思いが形になるという意味での悪い使い方は「あの人が不幸になって欲しい」と願い、祈ることです。
悪い使い方は時には実現することもありますが、最終的には自分に跳ね返ってきますので要注意です。
自らが幸せになりたいと思ったらまずは神様に対して「幸せになりたいです」と願い、祈ることから始まるのです。
今あなたの置かれている幸せか不幸かの状況は、絶対的なものでもなくて、誰かと比較するものでもありませんが、見方によってはどちらにも成り得るもので、願い、祈れば変わるものなのです。