浄土宗とは
浄土宗とは大乗仏教の宗派で、浄土往生信仰を基本に位置付け、法然を開祖とする鎌倉仏教。
末法思想
末法とは釈迦の入滅後1500年もしくは2000年過ぎたら釈迦の説いた教えを実践する者と悟りに入る者が居なくなる時期のことで、その考えを末法思想と言います。
永承7年(1052)を末法元年と捉え、院政の行われていた永承七年は藤原道長の息子、藤原頼通の時代であり、疫病が全国的に流行し、藤原家と縁の深い大和の長谷寺が焼失、更に地方では陸奥国で「前九年の役」が勃発などの情勢が不安定な時であり、凶事が続くことから末法元年として恐れられたのです。
僧侶も武装
国家鎮護の寺としての天台宗の比叡山延暦寺では荘園を貴族や武士の侵入から守るための僧兵といわれる武力集団を持ち、内部抗争が激化したり、東大寺や興福寺など南都の僧とも権力闘争が起きたりなどの物騒な世の中であったからこそ、末法と言われる様相を誰もが感じていたのです。
法然の専修念仏
法然は「南無阿弥陀仏」の念仏をひたすらに唱えれば死後には平等に往生できる説いた平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した僧です。
法然は只ひたすらに念仏を称える「専修念仏」が浄土への往生の決め手になると確信して教義の中心とし、誰にでも実践出来ることから、その運動を広めることに生涯を捧げたのです。
法然上人絵伝などでは法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされています。
しかし法然の思いが民衆に広がっていくことに反して従来の仏教教団の反発を買うことになり、念仏禁止の受難の日々が続き、承元元年(1207)には弟子の住蓮と安楽が院の女房と密通したという噂によって四国に流罪となり、4年後に京に復帰するも翌年の二月には齢八十にて往生を遂げました。
浄土宗の発展
法然の「専修念仏」の教えは、末法の到来とも言われて当時の荒廃しきった社会の中で、貧しい人や仏法を知らない人であっても浄土に往生出来るという救いをもたらしたことで広く社会に行き渡り、衆生済度の真の仏法の姿だと賞賛されたのです。
法然によって確立された浄土教は後の親鸞の浄土真宗、一遍の時宗を生み出すことになりました。