覚鑁上人とは

覚鑁上人のイラスト

覚鑁(かくばん)上人は平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であると共に真義真言宗の始祖でもあります。

覚鑁の経歴

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嘉保2年(1095)に京都仁和寺の荘園藤津庄の総追補使伊佐兼元の三男として誕生し、13歳で仁和寺成就院に入門、20歳になって東大寺戒壇院で受戒した後高野山で学びます。

35歳で伝統的な真言宗の灌頂を悉く受けて高野山に伝法院を建立して鳥羽上皇の帰依を受けるも、当時の高野山での僧侶の腐敗の立て直しを図るために大伝法院と密厳院を建立して大伝法院座主に就任し、長承3年(1134年)には金剛峯寺座主も兼任して真言宗の立ち直しを図りました。

覚鑁の計画に反発した伝統派の僧の集団が保延6年(1140)に、覚鑁の自坊である金剛峯寺境内の密厳院に放火して焼き払いました。

保延6年(1140)になり高野山を追われた覚鑁は、弟子一派と共に大伝法院の荘園の一つで弘田荘内の豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移しました。

康治2年(1143)に覚鑁は入滅し、根来寺奥之院の霊廟に埋葬されました。

真義真言宗について

真義真言宗のイラスト

覚鑁の入滅後に弟子たちは高野山へ戻りましたが、金剛峯寺との確執が深かったために、正応元年(1288)になって高野山大伝法院の学頭頼瑜が大伝法院の寺籍を根来寺に移して「新義真言宗」としました。

きりもみ不動

きりもみ不動のイラスト

保延6年(1140)に覚鑁の真言宗立て直し計画に反発した伝統派の僧の集団が覚鑁の自坊である密厳院の不動堂に向かった時のこと、押し入った衆徒の前に現れたのは同じ姿の不動明王が二体で、一体が本尊で一体が覚鑁の化身なのだが分からぬまま叩き潰そうとしたが、火焔に包まれて近づくことが出来ませんでした。

そこで両方の不動明王めがけて石を投げ続けるも当たらず、ついに錐を取り出して不動明王の膝を刺すと二体とも血が出たことに驚き、怖気づいて退散したという逸話で、その時の不動明王が今でも根来寺の不動堂に錐鑽(きりもみ)不動として安置されています。

真義真言宗のその後

真義真言宗のイラスト

江戸時代になって新義真言宗は紀州徳川家から復興の許しを得て根来寺と共に復興し、覚鑁は生前の功績を評価されて「興教大師」の諡号を贈られました。

現代では新義真言宗・真言宗豊山派・真言宗智山派で、弘法大師空海の宝号の真言「南無大師遍照金剛」と一緒に「南無興教大師」を唱えています。