勿体ないとは

勿体ないのイラスト

勿体ないとはまだ役に立つのに無駄にしてしまうことが惜しいということです。

勿体ないの意味

勿体ないという言葉には様々な意味が含まれています。

  • まだ役に立つのに無駄にしてしまうことが惜しい
  • チャンスを活用出来ずに惜しい
  • 身に余る有難い言葉や待遇
  • 神仏に対して恐れ多い

最近では社会全体でエコや省エネなどが進められていますが、大量生産・大量消費の社会が地球を蝕んでいることから、まだ役に立つのに無駄にしてしまうことが惜しいという意味での勿体ないが注目されています。

昭和の世代

昭和の戦前戦後位の世代の人なら、お弁当を食べる時に弁当箱の蓋を開けたら、ほとんどの人がまずは蓋に付いたご飯粒から先に食べると思います。

蓋に付いたご飯粒を綺麗に食べてしまってから本体のお弁当を食べ始めるのです。

もちろん中のお弁当は全く残すことがなく綺麗に食べるはずです。

私も実はそのような食べ方をするのですが、「お米」というものはお百姓さんが「八十八」の手間をかけて作ったのだから「八十八」と書けば米になる、食べる時には作ってくれたお百姓に感謝して食べなさいと教えられた世代なら、一粒も無駄にしてはいけないと親からうるさく躾けられたものです。

蓋にご飯粒が付いていたら

コンビニやスーパー、お弁当屋さんで買ってきた弁当を食べようと蓋を開けた時に、蓋にご飯粒が付いていたらあなたならどうしますか?

全く意識しない

ほとんどの人がお弁当の蓋に付いたご飯粒の事を全く意識しないことでしょう。

ご飯粒が付いていても蓋は蓋として捨ててしまうことに罪の意識を感じる人は少ないと思います。

中には蓋に付いたご飯粒を食べるなんて卑しい、はしたないと親から教えられた人も居ることでしょう。

特に気品の高い人がそのようなことをしたら、品格が落ちるような気がするものです。

時と場合による

誰も人が居ない時にはお弁当の蓋に付いたご飯粒を食べるけれど、他の人と一緒に食べるような時には蓋に付いたご飯粒は食べないという人も居ることでしょう。

やはり人が見ていたら「卑しい、はしたない」などと思われないか気になるところです。

ほとんどの人が蓋に付いたご飯粒を食べるようなことはしないでしょうから、他の人と合わせるという考え方の人は皆に従うということになります。

必ず食べる

蓋に付いたご飯粒を必ず食べると言う人は勇気のある人です。

大変に善い事をしているのですからね堂々とすれば良いと思います。

どうせなら「勿体ない」と言って食べたら案外他の人も共感してくれるかもしれませんし、そのことで会話が弾み、同じ価値観を持った人との新たな出会いもあるかもしれません。

何事に対してもしっかりとした考え方を持って臨む人は意外と多くの人に好かれるのです。

仏教と托鉢

托鉢のイラスト

仏教の出家者は本来俗世間のお金を稼ぐ仕事をすることなく、在家の人が出家者の生活を支えることになりますので、出家者は午前中に托鉢に出かけて在家の人の家々を廻り、食べ物などを鉢に入れてもらい、持ち帰った食べ物は平等に分けて頂きます。

在家の信者にとっても出家者が家々を回って「布施」という功徳を積む機会を作ってくれたことに感謝し、そして三つの宝物である仏法僧を敬うことで在家としての役割を果たせるのです。

托鉢で得た食べ物はどんな物であっても不平不満を言わず、そして決して無駄にすることなく頂くことで出家者は修行に専念することが出来るのです。

真言宗と食事作法

生身供の写真

真言宗では食事の前に「食事略作法」というものがあって、修行中の身でありながらも食事を頂くことが出来ると言う御縁に巡り合えたことを諸仏諸菩薩等に感謝すると共に、供養し、目の前の食に対して観想、瞑想するのです。

その観想とは

  1. 自らの行為を振り返り、多くの人の手によってこの食卓に上ったことを思う
  2. 自らの徳を積む行いが食べるにふさわしいかどうかを思う
  3. 善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと無智であることを思う
  4. 食べ物はいのちを養う為であり、正しい食物を必要の限度にとることを思う
  5. 正しき生活を目標にして、徒に世の栄達を願わざることを思う

更に

  • 一切の悪を断つために…ご飯をひと口
  • 一切の善を修すために…ご飯をひと口
  • 一切のいのちを助けるために…ご飯をひと口
  • 仏道に回向するために…菜汁をひと口

こういった事が済んでから食事が始まるのです。

修行者にとって食事というものは有難いを通り越して、どうやってここに運ばれてきたのか、自分が食べるにふさわしい者であるかということが試されているのです。

そういう意味ではたとえ一粒の米であっても大宇宙の生命の営みの中でご縁あって生まれ、今私達の目の前に運ばれてきたことが偶然であり必然でもあり、私達の命と魂を支えるために命を捧げてくれるのですから、決して無駄にする訳にはいかないのです。