施餓鬼とは

施餓鬼のイラスト

施餓鬼とは餓鬼の世界の餓鬼に食べ物などを施すことにより、仏法の施しに触れて目覚め、餓鬼の世界から救済されることを願う儀式や行事のこと。

施餓鬼の由来

釈迦の十大弟子

盂蘭盆業(うらぼんぎょう)によりますと釈迦十大弟子の一人で神通第一と言われた目連神通力で自分の亡き母を探していると餓鬼の世界に堕ちてしまってやせ細り苦しんでいる姿を見たので、母を救おうと食べ物を供養しても燃え盛る炎となって食べることが出来ませんでした。

釈迦にそのことを伝えると母は生前中に自らの利益にばかり走り、施すことをしなかったために今の餓鬼の世界に居ること、そして母を救うためには安居会と呼ばれる90日の修行が終わる7月15日の日に御馳走を準備して読経し、供養することを説きました。

目連は釈迦に言われた通りのことを実践したら餓鬼道に堕ちた母は苦しみの世界から救われることが出来たので、この供養の行事が盂蘭盆の起源であるとされ、お盆に施餓鬼をすることの始まりだそうです。

餓鬼について

三悪趣

餓鬼とは衆生が生まれ変わりする輪廻転生の六道の内、下から2番目の世界で、最下部の地獄の上にある世界のことで、仏教では行ってはいけない世界の三悪趣(地獄、餓鬼、畜生)に含まれます。

餓鬼は手や足がやせ細って腹だけが異常に膨れている栄養失調の様相を呈し、常に飢えと渇きに苦しみ、水や食べ物を求めてさまよい歩き、時には餓鬼同士で争い、落ちている食べ物など何でも口に入れようとするが、火が噴き出したり吐き出したりして、決して満足することが出来ません。

施餓鬼の意味

買占め餓鬼

私達の周りには自然の鳥に穀物や木の実をあげる人、野良猫にフードを上げる人、池の鯉にパンをあげる人が居ます。

決まった時間に餌をあげるようになりますと動物達は少しずつ心を許して私達に近づいてきてくれて、コミュニケーションが出来るようになってくるのです。

私達人間と周囲の動物は食べ物を通してつながっているのです。

仏教的な「施し」と言う思想が無くても与えることでお互いに豊かになれるのですから、施すと言うことは心を豊かにする実践であり、魂を向上させる修行でもあるのです。

餓鬼は私達の世界のすぐ傍に居る存在ですが、常に飢えているために満たされるということが無く、お腹が空いているということは、心も常に飢えている状態なのです。

餓鬼は私達が落とした食べ物や捨てた食べ物を見つけては食べようとするのですが、食べようとした瞬間に炎となって、残念ながら決して口にすることが出来ないのです。

食べようとしても食べることが出来ない…これを延々と繰り返しているのですから、大変な苦しみであり、そのくるしみを背負ったままでは決して救われることが無いのです。

そういう餓鬼に食べ物を施すことによってお腹と心が満たされた瞬間に「施す」ことの有難さに気付いたとしたら、自分が何故餓鬼であるのかが分かり、魂の共済の道が開けてくるのです。

施餓鬼の仕方

施餓鬼の旗のイラスト

施餓鬼棚と言われる棚の上に供物を置き、五如来の旗を掲げて施餓鬼作法を行います。

陀羅尼と五如来の加持力によって餓鬼の罪障を消滅し飢えを取り除き、苦しみの世界からの救済を願います。

五如来とは

  • 宝勝(ほうしょう)如来…貪りの業を取り除いて幸せと智慧を授ける
  • 妙色身(みょうしきしん)如来…苦しみに満ちた姿を穏やかな姿に変える
  • 甘露王(かんろおう)如来…身も心も安楽で満たされる
  • 広博身(こうばくしん)如来…広大なる飲食を施す
  • 離怖畏(りふい)如来…恐怖を取り除く

施餓鬼の心掛け

施餓鬼の心掛け

施餓鬼は動物に餌をあげる行為に似ていますが、功徳を積むため、そして全ての生命に対する供養のためという大きな仏教的目的があります。

この世の中のありとあらゆる生き物は皆繋がっていて、全ての生き物の魂が旅の途中で今の生き物の姿に出会い、死んではまた生まれ変わるを繰り返しているのですから、全ての生き物の魂を救うことは、自分を救うことにもなるのです。

仏はその事実を知っているので全ての魂の救済の活動を続けているのです。

私達は人間の立場で生まれて、他の供養をすることが出来るというとても恵まれた環境にあるのですから、そういう意味で施餓鬼はとても良いチャンスなのです。