施しとは

托鉢のイラスト

施しとは相手に対して恵み与えることです。

施しの原点は托鉢

釈迦の在世当時から出家者は衣と鉢以外を所有することなく、生活に必要な食料などは家々を回って布施として受け取る托鉢によって賄われていましたが、現代でも一部の僧により駅前の托鉢などで継承され、社会活動の目的で行うこともあります。

欲望を捨てるために物を持たない僧侶の生活を支えるのが在家信者の大切な役割なのです。

自分の物を相手に与える理由

心の中にある天界

自分が働いて稼いだお金で買った物は自分の物であり、自分の好きなように出来るのは当然のことで、たとえば自分が食べるためにスーパーで買ってきたおいしそうなブドウは、自分が食べたいときに食べたい量だけ食べれば良いのであって、自分が買った物だから当然の権利なのです。

私達は食べ物にしても趣味のコレクションにしても自分が楽しむために買っているのであって、辛い仕事を我慢して稼いだお金なのだから、たまには贅沢な物を買うようなことでそれが楽しみになり、ストレス開放のための方法でもあるのです。

自分が買った物は自分のための物であって、人に差し上げるような理由はなく、間違って買ってしまったからとか、たくさん買いすぎて余ってしまったからという理由で人に差し上げることはありますが、最初から人に差し上げるために買った訳ではありません。

自分の物を相手に与える時には、それなりの理由があるはずです。

おすそわけ

御裾分け(おすそわけ)とはお福分けとも言い、他人からもらった品物や利益の一部を、更に友人、知人などに分け与えることです。

裾(すそ)は着物の末端で地面に近い所にあることから「つまらないもの」という意味があり、自分よりも目上の人に使う言葉ではなく、お福分けなら問題ありません。

他人からの頂き物は自分でお金を出して買った物ではないことから、意外と抵抗なく人に差し上げることが出来るものです。

場合によっては自分の好みではない物を頂いた時や、あまりにもたくさん頂いたような時に「捨てる」ということはもったいないことであり「御裾分け」はとても便利で相手に喜ばれるのです。

昔は野菜がたくさん採れたからとか、魚釣りに行ったらたくさん釣れた、などの理由でご近所同士で御裾分けする光景が普通にありましたが、ご近所同士のお付き合いが円満である秘訣でもあります。

御供

歳神様

御供とは神仏に対して金品を差し上げることで、家や家族を守ってもらったり、五穀豊穣や大漁などを願い、神仏の好むものを差し上げます。

敬うべき神仏に対しては「献上」という言い方の方がふさわしいかもしれません。

御供え物は最上の物を供えるのが基本であり、米や酒などは神様用に特別に作られた最高の品質のものを供えます。

仏壇の本尊や御先祖様に供える仏飯(ぶっぱん)は朝一番に焚いてまだ誰も食べていない部分を供えます。

神仏に供えた品物は捨てることなく「御下がり」として有難く頂きます。

ボランティア

ボランティアは災害時などに災害を受けて困っている人達の支援に行くことで、困っている人のために自分の体を使って「労働」という形で奉仕することです。

私達日本人は昔から「困った時はお互い様」という尊い考え方が根付いていて、地震や噴火、台風などの災害が多いことから、誰もが助けたり、助けられたりする立場に成り得ることから自然に身に付いた精神です。

自分の空いた時間を利用してボランティアをしている人も居れば、大震災の時などは仕事を休んでまで駆けつけるような素晴らしい方もたくさん居られます。

支援物資

災害時などに家を失ったり避難したりして生活に困っている人達に生活支援の物資を送ることです。

家を失った人や避難している人にとっては、何も持たずに避難した人も居て、服や毛布、生活用品などの当座の生活物資の支援はとても助かるものです。

自治体の単位で災害用の物資を保管している場合には、優先的に使われますので、必要の無いものを送っても困ることになりますから、何が必要なのかを調べた上で支援しましょう。

寄付

寄付と言う行為は世界中で行われており、多くの支援団体もあります。

災害時に臨時に設けられる寄付もあります。

「困っている人を皆で助けよう」は人類としての共通の願いであり、富める人も貧しき人も、健康な人も病気の人も、老いも若きも、誰もが皆が平和に過ごすためのあるべき姿なのです。

施しで心豊かに

人に対して分け与える施しで、自分の持ち物が減ってしまいますので損をしたように思いますが、実は仏教的には大いに得をしているのです。

喜捨

喜捨とは

喜捨とは「喜んで捨てる」と書きますが、寺院や僧侶などに対して喜んで金品を施すことを表す仏教用語です。

執着の要因となる金品の所有から離れて寺院や僧侶に寄付することで功徳を積み、仏道の完成を目指します。

出家者が金品を所有することで生じる執着は心を乱すことから、心を静かにして正しい智慧を得るための障礙となり、仏道の修行を邪魔してしまうのです。

在家者は出家者の生活を支え、修行の場である寺院の運営を支えることで功徳を積むことが出来ますので、出来るだけたくさんの功徳を積むために喜んで金品を施すことが喜捨なのです。

布施

布施波羅蜜の「布施」とは梵語でダーナ(dāna)と言い、「檀那波羅蜜」とも言われ、大乗仏教で菩薩が如来になるための修行である六波羅蜜の一つ。

布施行には、財物を施す財施(ざいせ)、法を説き与える法施(ほうせ)、恐怖や不安を取り除き安心を与える無畏施(むいせ)があります。

施しは喜びである

貧者の一灯

今の世の中「自分の物は自分の物」は当たり前だとして「人の物も自分の物」という考えが一人の人間の考えでは収まらずに国という単位でもまかり通っています。

「人の物も自分の物」という考えは「人の物を盗っても構わない」「盗られる方が悪い」という理屈で成り立っていますので、たとえば海外旅行に行ってトイレに入る時に入り口の所に荷物を置くようなことをすれば荷物が無くなっていて、警察に届けたところで「そんな所に荷物を置いたあなたが悪い」と説教されるのです。

人から取れるものは少しでも取ってやろうという考えは欲望と執着からくるもので、人間としての本能でもありますので、本能的に生きていく場合には当たり前の事なのです。

しかし私達は「本能的に生きていくため」だけに生まれてきたのではありません。

「本能的に生きる」だけなら動物で構わないのです。

動物は自分のエサを獲ることだけで生きていますが、「他に施す」ということを知らないのです。

特に困った相手に施すことで、困った者は物質的、そして精神的に救われますし、施した側も相手の喜びの表情を見ることが自らの喜びになるのです。

仏の世界は相手に施すだけの世界ですから、相手の喜びが自らの喜びとなる世界です。

その仏の喜びが人間界に降りてきたのが「施し」なのです。

施しを知る者は決して他から奪うようなことはしないのです。

私達の世界では施すことを知らない動物レベル以下の人が多いのが事実ですし、紛争や戦争などのトラブルを起こし続けています。

紛争や戦争に巻き込まれたら全ての人が動物レベル以下に引きずり込まれてしまいます。

動物よりも高い世界の阿修羅の世界では「施し」を知ってはいるのですが、プライドに邪魔されて実践できないのです。

私達は天の世界或いは菩薩の世界の実践行である「施し」を出来る立場にありながらも、私達の世界に隣接する低い世界に邪魔されて奪い合いの修羅場ばかりが目立ちますが、少なくともそういったことに影響を受けることなく只ひたすらに「施し」の実践をする人が必要です。

たとえ世の中がどんなに乱れようとも、そんなことに影響されずに只ひたすらに「施し」の実践をする人が必要なのです。

たとえ世の中が奪い合い、略奪の世の中になってしまっても、只ひたすらに「施し」の実践をすれば良いのです。

施しは喜びであり、功徳であり、他を幸せにし、最後には自分のためでもあるのです。