脅し文句とは
脅し文句とは人を怖がらせる言葉のことで、権力や力の強い人が相手を怖がらせて自分に従わせるために使う「痛い目に遭わせてやる」「立ち上がれなくしてやる」などの言葉のこと。
脅し文句の原因
脅し文句には「恨んでやる」「呪ってやる」などの相手を恐怖に陥れる言葉と「殺してやる」などの命に係わる言葉、「訴えてやる」「通報してやる」などの第三者の処罰を求めるものなどがあり、いずれも相手とのトラブルや争いが原因となっていて、恨みや憎しみ、怒りの感情を表現した言葉になります。
マンションに住んでいて上の階の人の足音が響く、隣の人の騒音がうるさいなどのトラブルはとても多く、一軒家に住む人でも隣の家の人が勝手に木を切る、ゴミを投げ入れる、大きな音を立てるなどのトラブルもまた多く、話し合いで解決することなくお互いに感情的になって、「訴えてやる」「通報してやる」などの騒動に繋がるのです。
霊的なことを感じやすい人は「特定の人から悪い気を送られている」「恨みの手法を向けられている」などで目には見えない脅しを感じていて、苦しみから抜け出せないでいます。
恨みや憎しみ、怒りなどの感情は決して相手を許さないという事になりやすいのですが、その許さないという気持ちを相手に伝えて恐怖を感じさせ、反抗させない、そして自分に従わせるための脅し文句なのです。
はったり
人と人とが争えば喧嘩になり、国と国とが争えば戦争になります。
争い事にも段階があり、良い悪いの論争で決着が付かない時には力関係で決着を付けようとします。
そこで自分の力を見せつけるための手段として自分の持っている力以上の大げさな言葉や態度をとることを「はったり」と言い、賭場(とば)で胴元(どうもと)が勝負を盛り上げるために「もっと掛け金を掛けろ」という意味で「張ったり」と言っていたのが語源だと言われています。
一般的に「はったり」とは勝負での駆け引きに使われ、自分の力を誇示して相手を脅すための「はったり」は古今東西何処の国でも使われています。
実際には無い物を大きく見せたり、するつもりのない争いを言葉で仕掛けたりするのが「はったり」の本来の意味ですから、喧嘩にしても口喧嘩で済めば「はったり」も役に立つのです。
今起こっている戦争にしても核を持つ国が脅し文句として「核を使うぞ」と言う「はったり」は使うべきではありませんし、もちろん本当に使うこともいけません。
最高の脅し文句
国同士の争いで核を持つ国の最終的な脅し文句は「ボタンを押したろか」です。
我が国でも広島と長崎で実際に原爆が使用され、前代未聞の甚大な被害を被ることにより敗戦が決定されたのですから、戦力を喪失させ都市が焦土になって何もかもを失うような兵器が実際に使われたら国家破滅の危機になるのです。
これまでの時代は核兵器を多く持つ国が大国の証とされ、他国に核兵器を持たせない事と、自国の核兵器を増やし続けること、そして友好国を増やすことで、ある程度の秩序さえ保てば平穏無事で居られたのです。
しかし現在起こっている戦争は国の指導者が暴走してしまい、誰も止めることが出来ません。
「ボタンを押したろか」が実際に起こるかもしれないのです。
本当に怖いのは
釈迦は王子としての恵まれた環境にありながらも、常に国同士が争う存亡を繰り返し、何時攻めてくるかもしれない、殺されるかもしれないという恐怖と隣り合わせで、争いの無い平穏無事な時が一時的にあっても、真の意味での平和が決して訪れることを悟っていたのです。
つまり人間世界に居る限りは根本的に争いの世界の中にあり、何時の時代も変わらないのが真実なのです。
戦争に使う道具にしても基本的には人を殺すための道具であり、仏教では最も重い罪である殺生をするための道具を何時の時代も作り続けているのです。
仏教の戒律の中でも不殺生が最初にくるのは、殺生の中でも人を殺すことはたとえ正義のためであっても地獄行きであり、地獄の責め苦を休むことなく加えられ、永遠に近い時間苦しみ続ける訳ですから、地獄の苦しみを知る人は決して殺生することはありません。
また一度低い世界に堕ちてしまった魂は、それ以上の世界に上がることが困難になってしまいます。
私達の魂は永遠の旅を続けていて、低い世界で苦しみの連続を味わい、少しでも安楽で平和な高い世界を目指しているのですから、いかなる理由があっても魂を低い世界に落とすようなことがあってはなりません。
殺生することで本当に怖いのは「地獄に堕ちる」ことであり、殺生のための道具である核兵器を持つことにでは自国の平和を保てません、そもそも地獄に堕ちるようなことは決してしないということが大切なのです。
戦争は指導者も参加した人も支持する人も同罪であり、私達がこの世に生まれた使命を果たすことなく悪趣に堕ちてしまい、未来永劫に亘って這い上がることが出来ないのですから、後悔してもしきれない程の悔しさを味わうことになるのです。
そして悪事を為した者は必ずその処罰は自分が受けるようになっているのです。
脅される側の立場
脅す側としては最強の兵器を持って相手を怖がらせ、いざとなれば本当にボタンを押せば相手が消滅してくれるのですから怖いものなしです。
しかし脅される側になってみれば、たとえ自分が正しくても、悪者にボタンを押されたら消えてなくなるだけのことですから、良い悪いの問題ではなくなります。
こういうことでは最強の兵器を持った悪者が生き残り、善人は消されてしまうことになりますので、やはり生き残るためには悪者が持っている以上の兵器を持つことが相手の行動を思いとどまらせる抑止力になるという考えが主流になるのです。
悪事の結果は必ず自分が受けることになるという道理が分っていても、やはり今の世の中、悪事を働いている人が世の中を支配しているのですから、真面目に生きていることがバカバカしくなってきたのです。
今するべき事
しかし抑止力というものは常識を持った人にのみ通用する理屈であり、常識のない者にとっては「先に押した方の勝ち」という理屈なのです。
国の指導者が暴走することは何処の国にもあり得ることで、暴走する指導者を思いとどまらせるのはその国の国民しか居ないのです。
もちろんいろんな意見があって構いませんので、国民一人一人が声を発する事が今一番求められていることです。
そして如何なる時代にあっても、世の中が如何なる状況になっても、悪いことはせず、正しいことを行うだけで良いのです。
混乱の世の中にあっても周囲の邪悪な影響を受けることなく、魂の向上を目指すことが魂を持った人としての大切な任務であることを忘れてはいけません。