最澄とは
最澄は平安時代初期の日本の仏教僧で、天台宗の開祖であり、伝教大師とも呼ばれます。
最澄の経歴
最澄は近江国滋賀郡古市郷(現在の大津)に生まれ、自宅を私寺にしていた熱心な仏教信者である父の影響で13歳にて近江の国分寺に入門し15歳で得度、南都で学んで20歳で東大寺戒壇院にて受戒の後正式な僧侶になりました。
その後は比叡山に籠って天台、華厳の経典を学びながらも聡明さは中央に知れ渡り、宮中では天皇の護持僧になり、高雄山神護寺では法華経講会の講師になるなどの活躍を見せていました。
朝廷からの信頼も厚く、遣唐使としての還学生(げんがくしょう)に選出されて延暦23年(804)に唐に渡って天台山を目指し、台州の龍興寺(りゅうこうじ)では道邃(どうすい)から天台の法と菩薩の三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を授けられ、仏隴寺(ぶつろうじ)の行満(ぎょうまん)からは天台の法門を伝授されました。
明州では峯山道場で順暁(じゅんぎょう)から金剛界と胎蔵界の両部の灌頂を受けて密教の書物115巻や法具などを与えられました。
帰国後には時の桓武天皇に歓迎され延暦25年(806)には天台宗の公認を受けるも、天皇崩御後には南都諸宗からの弾圧攻撃を受けてながらも諸宗との論争を繰り返し、東国伝道の旅に出るなど奔走し、56歳にて入滅。
貞観8年(866)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡され、これは円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号です。
日本天台宗開祖
天台宗は中国では智顗(538-597)を開祖とし、法華経を根本経典とする大乗仏教の宗派で、天台法華宗とも言われます。
我が国では最澄が延暦23年(804)から翌年にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を本場で学びました。
日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりです。
最澄と空海
帰国後には時の桓武天皇に歓迎され延暦25年(806)には天台宗の公認を受けましたが、同年には長安で密教を学んだ空海も帰朝しました。
806年10月に帰国した空海は、持ち帰ったものを整理して「御請来目録」を書き上げ、朝廷に提出したが、遣唐使の規約を破った犯罪者でもあるので、大宰府の観世音寺に留まりながら、諸国を修行する日々を送っていたのです。
その頃朝廷では薬子の変が勃発し嵯峨天皇と先帝との勢力争いで都が分裂の危機に陥っており、帝に呼ばれた空海は国難を鎮めるために高雄山寺に入寺して「仁王経法」を修することによって薬子の変は平定され、これを機に空海の評判は瞬く間に全国に広まりました。
空海の持ち帰った密教の優れていることを知った最澄は空海に対して密教の習学を申し出て弟子を送り、弘仁3年(812)10月27日には乙訓寺にいた空海を訪ねて金剛界と胎蔵界の両部の灌頂を受けました。
その後も交流は続くものの、空海の弟子として振る舞うことが出来ない最澄は空海とは疎遠になっていきます。
一切衆生悉有仏性
「一切衆生悉有仏性」とは一切の衆生は生まれながらに仏になる素質を持っているということで、出れもが皆成仏できるということで、最澄は法相宗の徳一(とくいつ)と激しい論争を行いました。
「三一権実論争」と言われる論争で宗派を掛けた激しい論争でした。
仏性を持たない衆生が居ると説く徳一に対して最澄は誰もが皆成仏出来ると説いたのです。
大乗戒壇
最澄在世当時の仏教界では僧になるためには、東大寺の戒壇院、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国の薬師寺のうち、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国家管轄の国分寺が僧を管理する仕組みとなっていました。
最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し朝廷に何度も要請しますが、既成仏教である南都諸宗の反感を買い、最澄在世の間に実現することはありませんでした。
最澄没後の822年になって延暦寺に対して戒壇の勅許が下されたのです。