生き甲斐とは
生き甲斐とは生きていくための楽しみや喜びなどで、人によって違いがあり、それがあるからこそ生きていけるということ。
生き甲斐の対象
生きていくための楽しみや喜びとして
- 遊び
- 趣味
- 旅行
- 恋愛
などが生き甲斐になりますが、楽しいものであれば何でも生き甲斐になりそうですし、中には仕事が生き甲斐という人も居ますので、どんなことでも生き甲斐になりそうです。
生き甲斐という決まったものがある訳ではなく、たとえばある人にとっては旅行が生き甲斐であるけれど、別の人にとっては生き甲斐ではないということもあるのです。
基本は四苦八苦
生き甲斐という楽しみがあるからこそ生きていられるということは、生きていくことが四苦八苦、要するに苦しみの連続であるからこそ楽しみが無いと生きていけないということです。
人生が楽しいことばかりなら生き甲斐なんて必要無いのでしょうけれど、王子の身分でありながら何不自由ない生活をしていた釈迦でさえも人生の本質が苦しみであると見抜いたからこそ何もかも捨てて求道の旅に出たのです。
しかしながら釈迦と違って私達凡人は何もかも捨てて出家した所で悟りを得るなんて所詮無理なことで、人間としての運命を全うするしか無いのですから、どうしても苦しみながらも生きていくには、時として楽しみが必要なのです。
生き甲斐は人生を楽しくする
生き甲斐があれば、そのために頑張ることが出来ますので、苦しいことも乗り越えることが出来ます。
どんなに苦しくても「もう少し頑張れば旅行に行ける」「もう少し頑張れば欲しい物が買える」のように乗り切ることが出来るのです。
生き甲斐のある人は人生を楽しく過ごすことが出来て性格が明るくなり、生き甲斐を共有出来る人が自然と集まってくるのです。
仏教と生き甲斐
仏教では人生における楽しみや喜びは煩悩であり欲望であり、悟りを得るためには邪魔であるから捨てなさいと説かれます。
生き甲斐も悟りを邪魔するものということになりますが、それは悟りを目指す修行者のことであり、人間世界で普通に生きていく凡人には生き甲斐が必要なのです。
私達は人として生まれてきた以上、悟りを目指さなければいけませんが、簡単なことではありませんし、在家の身として生きていくのなら、人としての最高の人生を歩むべきなのです。
そういう意味でも生き甲斐は出来る事なら自己満足ではなくて、他と共有できる、そして他を幸せにする生き甲斐であった方が良く、利他行の実践にもつながっているのです。
生き甲斐が無い
生き甲斐が無い、喜びや楽しみが無いという人は無理をして生き甲斐を作るようなことはしなくて構いません。
いろんなことに興味を持って積極的に参加していればそのうち生き甲斐に巡り合うものです。
しかし一人きりで部屋の中に閉じこもっていて死にたいと思っている人には生き甲斐など全くありません。
そういう場合には部屋の窓を開けて外の空気を採り入れてみましょう。
そして外の世界を眺め、自然の息吹を感じ、鳥などの声を聞き、精一杯生きている姿を観察し、それらの自然と自分がつながっていることを感じましょう。
騙したり騙されたりの嘘のない真実の世界が広がっているのです。
その中では皆が精一杯与えられた命を生きているのです。
素晴らしい、そして有難いという気持ちが自然と芽生えてくるものです。
老後の生き甲斐
生き甲斐というものは生きている時間が長いからこそ必要なのであって、生きる時間が短くなってしまえばだんだんと少なくなっていくのです。
ペットを飼うにしてもたくさん飼っている人は悲しいお別れもたくさんしているのですが、年齢を重ねますと自分の方が先に亡くなってしまったら可哀そうだからという現実が見えてきて、もう飼うのはやめたということになるのです。
歳を取ってだんだんと体の自由が利かなくなって、普通に出来ていたことが出来なくなり、新しいことに挑戦するようなことが無くなったにしても、孫の成長やテレビ、ラジオの視聴など、何かしらの生き甲斐があった方が活き活きと生きていけるのです。
生き甲斐を失くしたら
人間関係に失望したり落ち込んだりして生き甲斐を失くしてしまったら、楽しみや喜びも失くし、悲しみと苦しみのどん底に落ちてしまいます。
たとえば恋人と一緒に居ることが生き甲斐である人が、天秤にかけられてある日突然フラれてしまい、別の人と楽しそうにしていたら、もう悲しみのどん底に落ちてしまって、生きているのが嫌になってしまいます。
こういう時にはそんな惨いことを平気でするような人と一緒にならなくて良かったと悟るべきです。
そういう理不尽な関係というものは長続きしないし、決して幸せになれないのですから、今はそういうことをされて悔しいですけれど、長い目で見れば失恋したことも「これでよかった」と思える日が必ず来るのです。