利他行

利他行とは

利他行とは自分の利益よりも他人の利益を優先する行のことで、私達が住む人間世界では、人間のみが行うことが出来る行です。

利他行は在家の人でも出来る行で、毘沙門天信仰の基本となります。

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利他行が出来るのは人間のみ

私達の世界と同じ地球上にある動物の世界では、弱肉強食という原則があり、喰うか喰われるかの恐怖心と隣り合わせの中では、皆が自分を守ることに精一杯で、とても他を思いやるという余裕はありません。

利他行が出来るのは、人間世界だけの特権なのです。

自利と利他

自分の利益のためというのが自利で、他人の利益のためが利他であり、仏教的には自分が悟りを得ようと修行に励み、その目的を自分の利得のみにとどめているのが自利であり、悟りを次に他人が利益をこうむるように他へ生かしてやるのが利他なのです。

小乗仏教は自分の悟りを目指すという意味では自利であり、大乗仏教は他を救済することで自らの悟りを目指す利他を目的とすると言われています。

利益とは

ここで言う利益とは、仏教的には悟りのことですが、悟りというものは最終目標であって、即座に実践出来ることではないために、特に在家の方にとっては、悟りに近づくという意味で、幸せという言葉だと分かりやすいと思います。

自分の幸せを願うのが自利で、他人の幸せを願うのが利他です。

幸せとは

幸せとは何ぞや、と言われてもピンときませんが、その反対語の不幸と言うのはとても分かりやすく、容易に想像できますね。

なぜでしょう、それは幸せよりも不幸の方が多いからです。

不幸というのは例えば、

  • 事故にあった
  • 怪我をした
  • 病気になった
  • 職を失った
  • 犯罪に巻き込まれた
  • 身内の者が亡くなった
  • 泥棒に入られた
  • 家が火事になった
  • 仕事がうまくいかない
  • 事業に失敗した
  • 人に騙された
  • 人間関係がうまくいかない
  • 生活するお金が無い
  • 離婚寸前の状態である
  • 喧嘩が絶えない

など、いくらでもあるもので、誰しも過去にあるいは現在も悩んでいるのです。

実はこれらの反対が全て幸せなのですが、何事も無い穏やかな状態、あるいは順調に物事がうまくいっている状態が幸せなのです。

何事もない状態を喜べること

ここで大切なことは、何事も無い状態を喜べるという気持ちを持つことです。

例えば家が火事になって燃えてしまったら、一瞬で不幸になってしまいます。

しかし、家が何事もなくそのままであることには幸せということは感じないものです。

幸せというものは、私達現世の者にとっては欲望でもあり、欲望は喉の渇きと同じで満たしても満たしても湧いてくるもの、常に満たされた状態であれば、もっと強い欲望が湧いてくるものです。

より強い欲望に身を任せて行動するのは、動物と同じです、結果的には結構知らない内に多くの人々を傷つけていたりするものです。

幸せというものは、追いかければ逃げていくものであり、本来はそこにある幸せを楽しむものなのです。

一旦不幸になれば、普段の状態が如何に幸せだったか良く分かります、病気になって苦しい思いをすれば、何でもない、健康な普段の生活が如何に幸せだったか良く分かるのです。

何事も無いことは、実はとても有難いことなのです、感謝する気持ちを忘れているから幸せだと思わないのです。

感謝の気持ち

今日も一日無事に過ごせたということがどんなに有難いことやら、この感謝の気持ちを言葉にして表さないから幸せだと感じることなく、気が付いたら幸せが逃げて行ってしまってるのです。

家族がいるのなら、無事に過ごせて良かったと声を掛け合いましょう、仏壇や神棚に向かって報告するのも良し、この無事で過ごせたということは、実は家族を含めて多くの人や神仏のおかげなのであり、自分一人だけで築き上げたものではないからです、自分を思ってくれている人がいると共に、自分も相手のことを思う、こうして小さな幸せが出来ているのです。

ここで大切なことは、「ありがとう」の感謝の気持ちを言葉にして声に出して言うことです、言葉は「ありがとう」の気持ちがこもっていれば何でもいいのです、但し心の中で思っているだけではいけません、誰もいなくても聞いてなくても構いません、声に出して言うのです。

言葉は言霊、唱え続ければ不幸を幸せに変える力も持っています、例えば「ありがとう」の言葉でも、毎日唱え続ければ、立派なお経になるのです。

何も僧侶を呼んで経をあげてもらうことだけが読経ではないのです。

幸せと欲望の違い

欲望は人間であれば誰にでもあるもので、人間の宿命です、釈迦は満たしても満たしても欲望が湧いてくる人間世界を苦しみに満ちた世界と捉え、悟りを得て人間世界から永遠に脱出された方ですが、ある意味欲望というものは、人間として生きるための楽しみであり、向上心にも繋がっていますので、現代のように物質的にも豊かな生活を謳歌することが出来るのです。

おいしいものを食べたいとか、楽をしたい、楽しみたいなどは全て欲望のなせる業なのですが、在家として普通の生活をしながら欲望を捨てろと言われても無理なはずです、欲望は欲望として認めたとしても、欲望って何か悪いことなのでしょうか。

おいしいものを食べても別に何も悪くはないぞ、とお思いのように、実は欲望自体は悪い事ではないのですが、満たしても満たしても湧いて来て、より強い欲望を欲するようになった結果として、略奪したり悪事を働いたりしてまで欲望を満たそうとする心になってしまうことが問題なのであり、知らない内に多くの人を傷つけていたりするのです。

ここでも先ほどの続きですが、たまには贅沢しても構いませんが、普段の何気ないことの大切さに気付くことです。

普段の家で普通に頂く食事の何と有難いこと、病院に入院して流動食の食事ばかりしていたら良く分かります。

例え欲望として湧いてきたものであれ、出来れば自分一人で満たされるのではなく、家族と共有し、小さな幸せにしてしまうのです。

この幸せは声に出して言わないと幸せにはなりません。

「よかったね」でも何んでもいいのです。

この幸せが共有できれば、皆の心が穏やかになる、これが仏の心に繋がっているのです。

真の利他行

先ほどの「幸せとは」の中で不幸の具体例をいくつか挙げましたが、世の中にはこのような不幸で悩み苦しんでいる人達がたくさんいます。

皆さんもそうかもしれませんし、全くの100パーセント幸せだという人はなかなか居ないものなのです。

もちろん家族の中で誰かが悩んでいたら、その家族の苦しみから救済するのが利他行であり、尊い行いです。

利他行というのは、自分の事は考えずに相手に尽くすことであり、自分のことは少々は犠牲になるかもしれませんが、誠心誠意、相手のことを思って全力で救済に取り組むのです。

例えば子供が非行に走るなんてことがあっても、もしかしたら解決にはならないかもしれないけれど、親として相手の幸せを思い、全力で取り組むのです。

この全力で取り組むという姿勢がとても大切なことで、長い時間をかけて仲直り出来たなんて、素晴らしい幸せが待っているかもしれないのです。

そして家族の中で誰かが病気であれば、全力で看病することです。

一生懸命に努力して治ったとしても感謝されなかったらがっかりしますが、決して何かの見返りを期待してはいけません。

良くなったら「良かったね」と言ってあげましょう。

「ありがとう」って言ってもらえばとても幸せな気持ちになれます。

しかし決して相手からの「ありがとう」なんて言葉を期待してはいけません。

ましては、感謝しろ、なんて言い方では親切の押し売りになってしまいます。

「ありがとう」も「良かったね」も言うのにお金がいる訳ありませんので、こちらからたくさん言えばいいのです、相手から感謝の言葉が返ってこないのは、そういう雰囲気が出来ていないからです、とにかく多くの言葉が行き交う雰囲気作りが必要なのです。

この利他行というものは、出来ましたら、多くの困っている人の救済をすることです、多くの人というのは、自分が全く知らない人を含むたくさんの人のことです。

多くの人の苦しみを救うのは、仏の仕事であり、全ての人がその苦しみから解放されることを願っておられるのです。

苦しんでいる人の苦しみを取り除き、仏の世界へと少しでも近づいてもらうことは、幸せの中でも最上の幸せなのです。

利他行の実践

身近な人であれ縁のない人であれ、他の幸せを願う実践が利他行です、仏にもいろんな仏がおられますが、仏の存在意義としての心は他を思う心であり、仏の世界は自分の幸せだけを思う心の集合体では無くて、他の幸せを願う心の集合体で成り立っているのです。

私達はそもそも生まれた時には皆が仏の心を持っていたものですが、今の世の中は競争世界、他を蹴落とし自分を護ることに秀でた人間が生き残る世界になっている中で、仏の心を無くしてしまいます。

しかし私達にとって真の幸せは今の競争世界を生き残った人の幸せではありません、真の幸せは他の幸せを喜ぶことであり、自己満足では無いのです。

私達の人生はあっという間に終わってしまいます、その刹那の間に何を成し遂げたかが大切な事であり、魂の声を聞けば何が大切かが分かるはずでございます。