利他行とは

利他行

利他行とは自分の利益よりも他人の利益を優先する行のことで、私達との関わりがある六道の世界、天界、阿修羅、動物、餓鬼、地獄界の中では、人間世界が一番利他行を実践する機会に溢れている世界なのです。

菩薩は如来になるまで菩薩行を続けていますが、菩薩行の中でも「世の中全ての人々の救済を願う修行」を続けておられるのです。

利他行は在家の人でも出来る行で、毘沙門天信仰の基本となります。

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利他行が実践出来る世界

私達が生まれ変わりを繰り返していると言われる六道の輪廻転生の世界の中でも利他行が出来る環境が整っている世界は限られています。

天界

天界のイラスト

天界は六道の中でも最高の世界ですが、四天王の世界でも寿命が500年(人間世界に換算すれば900万年)あることや、常に楽を享受できる苦しみの少ない世界なので、せっかくの功徳を減らしてしまうことが多く、特別な任務を与えられた天人以外は利他行が実践しにくい世界なのです。

天界の世界の中では苦しみが少ないので毘沙門天のように人間世界に出向いて利他行を実践しているのです。

人間界

人間道

私達人間界の世界と同じ地球上にある動物の世界では、弱肉強食という原則があり、喰うか喰われるかの恐怖心と隣り合わせの中では、皆が自分を守ることに精一杯で、とても他を思いやるという余裕はありません。

生き物という意味ではその弱肉強食の頂点に立つのが人間であり、地球上で最も強い生き物として君臨していますが、最強の立場に居ることで、私達人間を含めた他の生き物に対しての利他行の実践の場がたくさんあります。

私達は家族という単位で暮らしていますが、家族の中でも、或いは学校でも職場でも、地域に於いても社会でも、動物に対しても利他行の実践の場が豊富にあります。

救済という意味では苦しんでいる相手に無条件に救いの手を差し伸べる機会がいくらでもあるのです。

阿修羅界

阿修羅のイラスト

私達人間より遥かに優秀なのに優劣を巡って争いばかりしているのが阿修羅界、常に争いに明け暮れていますので、利他行の実践が困難です。

プライドが高すぎること、そして頭が良すぎて計算することが先行し、素直に他に奉仕するという事が難しいのです。

動物界

動物界

動物界では弱肉強食の世界で、喰うか喰われるかの世界の中では、他を思いやる実践は非常に困難です。

そういう動物界の中でも、人間に飼われたペットとしての生き方は、家族の一員として大切にされ、飼い主の癒しにもなっていますので、食や命の心配をすることなく最上の部類になりそうですが、思考力が弱いので利他行などの高度な考えに到達しにくいです。

餓鬼界

餓鬼道のイラスト

餓鬼界では飢えと空腹に支配され、永遠に満たされない世界で、他から奪う事だけは考えることが出来ても、他に施すということが出来ませんので、利他行の実践は絶望的です。

地獄界

地獄のイラスト

地獄界では永遠の苦しみしか無い世界で、苦しみから逃れる事しか考えられない世界では修行出来るような環境は全くありませんので、利他行の実践など不可能に近いのです。

蜘蛛の糸

芥川隆介の「蜘蛛の糸」は仏教的な要素を含んでいる有名な作品です。

ある日のこと、極楽の蓮池の周りを散歩していたお釈迦様、ふと池の中をご覧になると、澄み切った水の遥か底には、地獄で苦しむ犍陀多(かんだた)という男が見えました。

犍陀多は生前は殺人や放火、そして大泥棒として悪事の限りを尽くした男でしたが、お釈迦様はこの犍陀多にも、たった一つだけ良いことをしたと思いだされました。

道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けたことがあったのです。

何とかこの悪人を救い出そうと、お釈迦様は極楽の蓮池から蜘蛛の糸を下ろされた。

血の池地獄で苦しんでいた犍陀多が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきたので、これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へ上へとのぼった。

地獄から極楽までの距離は長く、やがてのぼることに疲れた犍陀多は糸の途中でぶらさがって休憩していました。

その時に下を見てみると、まっ暗な血の池地獄から這い上がろうと、蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になってのぼってきているのです。

このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだその瞬間、蜘蛛の糸は犍陀多がいる部分でぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちと共に暗闇へと、まっさかさまに落ちていった。

この一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去ったのです。

極悪非道の犍陀多(かんだた)でも他を思いやる利他行の実践を一つだけでも行った事は価値あることで、たとえ地獄に堕ちていても蜘蛛の糸が降りて来るだけの値打ちがあったのですが、自分のことしか考えられない、他を思いやることが出来ないのは地獄の住人の本性であります。

他人を先に上らせて、自分のことを後に回し、全ての人を上がらせた最後に自分がのぼっていくのが利他行であって、「この蜘蛛の糸はおれのものだぞ」という考え自体が既に失格なのです。

毎日毎日、延々と苦しみばかりが続く地獄では、利他行の実践など到底できそうにありません。

自利と利他

自分の利益のためというのが自利で、他人の利益のためが利他であり、仏教的には自分が悟りを得ようと修行に励み、その目的を自分の利得のみにとどめているのが自利であり、悟りを次に他人が利益をこうむるように他へ生かしてやるのが利他なのです。

小乗仏教は自分の悟りを目指すという意味では自利であり、大乗仏教は他を救済することで自らの悟りを目指す利他を目的とすると言われています。

利益とは

ここで言う利益とは、仏教的には悟りのことですが、悟りというものは最終目標であって、即座に実践出来ることではないために、特に在家の方にとっては、悟りに近づくという意味で、幸せという言葉だと分かりやすいと思います。

自分の幸せを願うのが自利で、他人の幸せを願うのが利他です。

幸せとは

幸せとは何ぞや、と言われてもピンときませんが、その反対語の不幸と言うのはとても分かりやすく、容易に想像できますね。

なぜでしょう、それは幸せよりも不幸の方が多いからです。

不幸というのは例えば、

  • 事故にあった
  • 怪我をした
  • 病気になった
  • 職を失った
  • 犯罪に巻き込まれた
  • 身内の者が亡くなった
  • 泥棒に入られた
  • 家が火事になった
  • 仕事がうまくいかない
  • 事業に失敗した
  • 人に騙された
  • 人間関係がうまくいかない
  • 生活するお金が無い
  • 離婚寸前の状態である
  • 喧嘩が絶えない

など、いくらでもあるもので、誰しも過去にあるいは現在も悩んでいるのです。

実はこれらの反対が全て幸せなのですが、何事も無い穏やかな状態、あるいは順調に物事がうまくいっている状態が幸せなのです。

何事もない状態を喜べること

何もないことを喜べること

ここで大切なことは、何事も無い状態を喜べるという気持ちを持つことです。

例えば家が火事になって燃えてしまったら、一瞬で不幸になってしまいます。

しかし、家が何事もなくそのままであることには幸せということは感じないものです。

幸せというものは、私達現世の者にとっては欲望でもあり、欲望は喉の渇きと同じで満たしても満たしても湧いてくるもの、常に満たされた状態であれば、もっと強い欲望が湧いてくるものです。

より強い欲望に身を任せて行動するのは、動物と同じです、結果的には結構知らない内に多くの人々を傷つけていたりするものです。

幸せというものは、追いかければ逃げていくものであり、本来はそこにある小さな幸せを楽しむものなのです。

一旦不幸になれば、普段の状態が如何に幸せだったか良く分かります、病気になって苦しい思いをすれば、何でもない、健康な普段の生活が如何に幸せだったか良く分かるのです。

何事も無いことは、実はとても有難いことなのです、感謝する気持ちを忘れているから幸せだと思わないのです。

感謝の気持ち

今日も一日無事に過ごせたということがどんなに有難いことやら、この感謝の気持ちを言葉にして表さないから幸せだと感じることなく、気が付いたら幸せが逃げて行ってしまってるのです。

家族がいるのなら、無事に過ごせて良かったと声を掛け合いましょう、仏壇や神棚に向かって報告するのも良し、この無事で過ごせたということは、実は家族を含めて多くの人や神仏のおかげなのであり、自分一人だけで築き上げたものではないからです、自分を思ってくれている人がいると共に、自分も相手のことを思う、こうして小さな幸せが出来ているのです。

ここで大切なことは、「ありがとう」の感謝の気持ちを言葉にして声に出して言うことです、言葉は「ありがとう」の気持ちがこもっていれば何でもいいのです、但し心の中で思っているだけではいけません、誰もいなくても聞いてなくても構いません、声に出して言うのです。

言葉は言霊、唱え続ければ不幸を幸せに変える力も持っています、例えば「ありがとう」の言葉でも、毎日唱え続ければ、立派なお経になるのです。

言霊は人や物を動かす力があります…言霊の力で開運を

何も僧侶を呼んで経をあげてもらうことだけが読経ではないのです。

幸せと欲望の違い

欲望は人間であれば誰にでもあるもので、人間の宿命です、釈迦は満たしても満たしても欲望が湧いてくる人間世界を苦しみに満ちた世界と捉え、悟りを得て人間世界から永遠に脱出された方ですが、ある意味欲望というものは、人間として生きるための楽しみであり、向上心にも繋がっていますので、現代のように物質的にも豊かな生活を謳歌することが出来るのも欲望の恩恵なのです。

おいしいものを食べたいとか、楽をしたい、楽しみたいなどは全て欲望のなせる業なので仏教的には「煩悩」と言いますが、在家として普通の生活をしながら欲望を捨てろと言われても無理なはずです、欲望は欲望として認めたとしても、欲望って何か悪いことなのでしょうか。

おいしいものを食べても別に何も悪くはないぞ、とお思いのように、実は欲望自体は悪い事ではないのですが、満たしても満たしても湧いて来て、より強い欲望を欲するようになった結果として、略奪したり悪事を働いたりしてまで欲望を満たそうとする心になってしまうことが問題なのであり、知らない内に多くの人を傷つけていたりするのです。

ここでも先ほどの続きですが、たまには贅沢しても構いませんが、普段の何気ないことの大切さに気付くことです。

普段の家で普通に頂く食事の何と有難いこと、病院に入院して流動食の食事ばかりしていたら良く分かります。

例え欲望として湧いてきたものであれ、出来れば自分一人で満たされるのではなく、家族と共有し、小さな幸せにしてしまうのです。

この幸せは声に出して言わないと幸せにはなりません。

「よかったね」でも何んでもいいのです。

この幸せが共有できれば、皆の心が穏やかになる、これが仏の心に繋がっているのです。

真の利他行

利他行

先ほどの「幸せとは」の中で不幸の具体例をいくつか挙げましたが、世の中にはこのような不幸で悩み苦しんでいる人達がたくさんいます。

皆さんもそうかもしれませんし、全くの100パーセント幸せだという人はなかなか居ないものなのです。

もちろん家族の中で誰かが悩んでいたら、その家族の苦しみから救済するのが利他行であり、尊い行いです。

利他行というのは、自分の事は考えずに相手に尽くすことであり、自分のことは少々は犠牲になるかもしれませんが、誠心誠意、相手のことを思って全力で救済に取り組むのです。

例えば子供が非行に走るなんてことがあっても、もしかしたら解決にはならないかもしれないけれど、親として相手の幸せを思い、全力で取り組むのです。

この全力で取り組むという姿勢がとても大切なことで、長い時間をかけて仲直り出来たなんて、素晴らしい幸せが待っているかもしれないのです。

そして家族の中で誰かが病気であれば、全力で看病することです。

一生懸命に努力して治ったとしても感謝されなかったらがっかりしますが、決して何かの見返りを期待してはいけません。

良くなったら「良かったね」と言ってあげましょう。

「ありがとう」って言ってもらえばとても幸せな気持ちになれます。

しかし決して相手からの「ありがとう」なんて言葉を期待してはいけません。

ましては、感謝しろ、なんて言い方では親切の押し売りになってしまいます。

「ありがとう」も「良かったね」も言うのにお金がいる訳ありませんので、こちらからたくさん言えばいいのです、相手から感謝の言葉が返ってこないのは、そういう雰囲気が出来ていないからです、とにかく多くの言葉が行き交う雰囲気作りが必要なのです。

ありがとうは仏教用語である

この利他行というものは、出来ましたら、多くの困っている人の救済をすることです、多くの人というのは、自分が全く知らない人を含むたくさんの人のことです。

多くの人の苦しみを救うのは、仏の仕事であり、全ての人がその苦しみから解放されることを願っておられるのです。

苦しんでいる人の苦しみを取り除き、仏の世界へと少しでも近づいてもらうことは、幸せの中でも最上の幸せなのです。

利他行の実践

身近な人であれ縁のない人であれ、他の幸せを願う実践が利他行です、仏にもいろんな仏がおられますが、仏の存在意義としての心は他を思う心であり、仏の世界は自分の幸せだけを思う心の集合体では無くて、他の幸せを願う心の集合体で成り立っているのです。

私達はそもそも生まれた時には皆が仏の心を持っていたものですが、今の世の中は競争世界、他を蹴落とし自分を護ることに秀でた人間が生き残る世界になっている中で、いつの間にか仏の心を無くしてしまいます。

しかし私達にとって真の幸せは今の競争世界を生き残った人の幸せではありません、真の幸せは他の幸せを喜ぶことであり、自己満足では無いのです。

私達の人生はあっという間に終わってしまいます、その刹那の間に何を成し遂げたかが大切な事であり、魂の声を聞けば何が大切かが分かるはずでございます。

利他行には段階があり、まずは家族の中で実践する相手の事を思う行、相手の幸せを願う行です。

自分が為した行いによって見返りを得ようとか思ってはいけません、感謝の言葉を期待してはいけません、無視されても嫌なことを言われても怒ってはいけません。

ただひたすらに相手の幸せを願うのです。

そしてその実践する場所を学校、職場、社会へと広げていくのです。

利他行を毎日続けることにより顔つきが優しくなってきて、そして表情が柔らかくなってきて、人が集まるようになり、人から感謝されるようになります。

誰に対しても「有難う」の言葉が自然と言えて温かい気に満ち溢れるようになれば一歩仏に近づいた証なのです。


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