ならず者とは

ならず者のイラスト

ならず者とは「不成者」と書き「どうにも成らない者」という意味で、社会の一員としての義務や役割を果たさない厄介者ということ。

常識が通用しない人

世の中には常識と言うものがあって、社会の中で生きていくために誰もが知っている(常識)はずの、守らなければいけない義務やルールのことですが、そういったことを知らない人や、知ってはいるけれど守らない人が必ず居て、周囲との協調を乱し、その結果として周囲の人に迷惑を掛けたり、時には暴力沙汰になったりすることが起こるのは今も昔も変わらぬことです。

常識が通用しないということで問題になる事例として

  • 騒音で周囲に迷惑を掛ける
  • 人の家の玄関や車庫の入り口をふさぐように車を停める
  • 人の家の庭木を勝手に切る
  • 人の物を勝手に盗る
  • ゴミを投げ捨てる

などのことで裁判沙汰になっていることがとても多く、そもそも話し合いにならない、話し合いに応じないなどのことが積もり積もって感情的な対立になることが多いのです。

こういうことは案外「いやがらせ」が目的で意図的に行われていることが多いことが特徴であり、注意されたことに対しての腹いせとしての行為が注意される度にエスカレートしていくのです。

暴力を振るう人

家庭内暴力

世の中に暴力的な人は何処にでも居るもので、何か気に入らないことがあればすぐに暴れる、大声を出す、挙句の果ては刃物を振り回すので、周囲の人は危害を加えられることを恐れて暴力的な人を避けるようになりますが、家族の中にそのような人が居る場合、家族の人は恐怖の日々を過ごすことになります。

暴力を受ける側になってみれば、暴力に対して抵抗すればするほど更にひどい暴力を振われて傷だらけになり、肉体的に苦しい思いをするぐらいなら、少々の暴力を振るわれても抵抗することなく大人しくしている方が被害が少ないのなら、耐えるしかないという結論に行きつくのです。

暴力恐さに正しくない意見がまかり通るようになった社会には、もはや正義などありません。

自分の意見が間違っていても暴力で押し通そうとすることは間違っていますが、周囲の人は「怖いから」という理由だけで間違った事を見ても見ぬふりをしているのは暴力に加担していることと同じですが、自分の立場上、こうするしか他に方法が無いという方もたくさん居られます。

そして暴力を振るう人は、実際に暴力を振るわなくとも暴力をチラつかせることで、悪事を押し通し、それを当たり前にしてしまうのです。

自己中心主義の人

ならず者は自分の事しか考えないので、他人の迷惑、傷み苦しみなどには無関心であり、自分さえ良ければそれで良いという考えは、他人に対する優しさや思いやりに欠けてしまいます。

幼少の頃から甘やかされて育ったり、親から放置されて大人になったような人が自己中心主義になり易いのですが、心が純粋過ぎて多くの人に騙されるような過去がある人が全く他人を信用出来なくなって自己中心主義になることもあります。

自分さえ良ければそれで良いという考えが国家にまで及びますと、周囲の国の領土を奪ったり、約束事を悉く破っても平気という「ならず者国家」が誕生します。

ならず者は何処にでも居る

ならず者と同じ意味を持つ言葉としてヤクザ、チンピラ、ごろつき、無頼漢(ぶらいかん)、やんちゃ者、荒くれ者、与太者(よたもの)などがあり、昔から社会のルールを守らず悪事を働く者が至る所に存在していたことから、私達の周辺にもたくさん居て、詐欺や暴力事件、飲酒、ひき逃げ、あおり運転などが日々のニュースで報道されていますが、実際は数多くの事件の中の氷山の一角であり、私達の周辺のごく普通の家庭の中であってもならず者の恐怖に怯えている人がたくさん居るのです。

ならず者が居たら

実際にならず者が近くに或いは傍に居る場合には、どのように対応したら良いのでしょうか。

気にしない事

家の近所に騒音や大声を出したり、変な行動をする人が居たら、気になって仕方ないもので、知らず知らずのうちに聞き耳を立てて聞いていたり、隙間から覗いていたりするもので、心がそのことに奪われてしまいます。

その人に何か危害を加えられることがないかと心配するのです。

そして気にすれば気にする程気持ちがイライラしたり怒りが込み上げてきたりしますので、穏やかな気持ちでいることが出来なくなってしまいます。

平和であると言うことは心穏やかで居られることですから、心が穏やかでないということは平和な状態が崩れてしまったということなのです。

仏教では「気にしない」ということは大切な修行であり、私達の心の中から出てくる様々な悪魔の脅しや欲望の誘いに対して、それが幻であることを見抜き、気にしないで居れば、そういった者達は自然と去っていくのです。

気にしないことは修行ですから、簡単に出来ることではありませんが、繰り返し意識することで出来るようになってきます。

悪鬼が自分に向かって何か投げつけてきたら、さりげなく避けてすぐに忘れましょう。

避けることが出来たのにわざわざ当たっておいてから「痛い!」「苦しい!」そしておまけに

  • 誰が投げた
  • 何処から投げた
  • 何故投げた
  • 何の恨みがあるのか

などのことをわめき散らしてはいけません。

悪鬼の仕業

邪鬼

私達の世界に隣接して阿修羅の世界や天の世界がありますが、悪鬼の居る世界もあって、そういう世界から私達に対して悪事を働いている悪鬼が人間の姿をしているのが「ならず者」です。

毘沙門天が足元に踏んでいる邪鬼は元々悪鬼で悪事ばかり働いていたのですが、毘沙門天に教化されて毘沙門天の使いになったという話は有名です。

悪鬼の仕事はルールや規則を守らずに世の中の秩序を乱し、暴力で悪事を正当化することであり、誰彼構わず攻撃し、相手が痛み苦しみ泣き叫ぶことが最大の喜びなのです。

自分に逆らったり立ち向かう者が最大の敵であり、正義を最も嫌います。

悪鬼に対しては世の中のルールや規則、法律、正義や秩序などは全く通用することなく、約束事や取り決めなど全く意味をなさないのです。

世の中には毘沙門天に教化されていない悪鬼がまだまだ無数に存在して、悪事を働いているのです。

私達のすぐ傍にも悪鬼が居るのですが、まずは「気にしない」の修行から始めてみては如何ですか。

毘沙門天に頼む

毘沙門天の守護

毘沙門天は悪鬼を法の力で教化して自らの使いとしているのですから、悪鬼のことは毘沙門天に頼むのが一番良い方法です。

悪鬼は私達の世界の近くに居るのですが、毘沙門天もまた私達の世界に近い所で活躍して居られるのです。

毘沙門天の御札はとても効果がありますので、一度お祀りしてみては如何ですか。

  • 近所とのトラブルが解決しました
  • 家庭内暴力が無くなりました
  • 穏やかな気持ちで過ごすことが出来るようになりました

などの声をたくさん頂いております。

新年祈願の御札

毘沙門天は私達一人一人が「人として幸せになる」ことを願って居られるのですから、素直にその御力を頂けば良いのです。

たった5百円で運命が変わるのなら、試してみる価値は十分にあります。

御札は祈願のコーナーにあり、祈願、送料込みで5百円です…祈願のコーナー

但し欲張りな人の願い、自分勝手な願い、人を傷付けるような願いは叶えてくれません。

そして御札は貼れば良いというものでもありません、幸せになるための実践を毘沙門天が説いていますから、実践しましょう。

毘沙門天に悪鬼の退治を頼む方法は、御札を南か東向きに貼って毎朝パンパンと2拍掌で1礼し「毘沙門天王様よろしくお願い致します、私も頑張りますから」と言います。