不治の病とは

不治の病

不治の病とは医学で治すことが出来ない病気のことで、かつてはペストや結核などが不治の病と言われてきましたが、今では末期ガン、パーキンソン病などが該当し、根本的な治療法が無く、延命や痛みを和らげることが治療の主な内容になります。

国民病としての癌

今の時代、亡くなった方の病名で癌は常に首位を占める程、普通の一般的な病気になってしまいましたが、今や誰もが癌になるリスクを抱えています。

癌は今や国民の二人に一人が罹患して三人に一人が死亡する病気となり、国民病とも言われていますが、未だに完治するための絶対的な治療法や薬が無い状況にありながらも、医療の進歩によって6割の方が治っているそうです。

癌による死亡率を下げるには早期発見と早期治療が決め手であり、早ければ早いほど治る確率が高くなります。

多くの人が癌で死亡するにも関わらずはっきりとした原因が究明されていないのですが、タバコ、お酒、食事などの生活習慣、或いは遺伝、生活環境などが複合的に原因になることもあり、完全に予防することが難しい病気です。

癌は気が付くのが遅かったり治療しても悪化するような時には、癌細胞が全身に転移していつの間にか最終段階であるステージ4まで到達してしまい、末期癌と言われる症状になって、余命宣告されることがあります。

不治の病を宣告されたら

癌の宣告-堕ちていく人

あなたがもし癌になって悪くなるばかりで回復の見込みがなく、そしてついに医者から余命宣告をされたら、どうしますか?

要するに死の宣告ですから、普段は冷静な人でも頭の中がパニックになるもので、そのような宣告は医者が予め家族の人に伝えておいてから相談の上で、本人に通告するかどうかを決めるのです。

何かやり残したことをしますでしょうか、それとも何も出来なくなるでしょうか。

釈迦は私達人間が生きている限り避けることの出来ない苦しみを「生老病死」の四苦であるとし、その中でも「病死」つまり「病気」と「死」が一度に襲ってくるのが不治の病であり、末期癌で医者から余命宣告をされたらもう死が確定したということであり、治るという希望が断たれ、病気の苦しみと死の苦しみが暗闇の中に引きずり込まれていくのです。

私達は生まれながらに「生きたい」「もっと生きたい」という根本的な願望を備えていますので、死ぬということは恐怖、そして最大の苦しみであり、出来る事なら避けたいと誰もが思うのですが、特に天寿全うするような年齢ではなくてまだやりたいことがたくさんあるような年齢の方が自らの死を宣告されると、夢も希望も失くしてしまいます。

人によっては余命宣告の重たさに耐えきれなくて精神に異常をきたすことから、余命宣告をするかどうかについては、家族の者の同意を得てから決定されます。

余命宣告を前向きに受け止めることが出来る人は、残された時間を有意義に使おうとするのに対し、余命宣告を前向きに受け止めることが出来ない人に対しては病状については事実とは異なる嘘をつき通すことになり、仏教では嘘をつくことは悪とされながらも「嘘も方便」と言われるように、本人を失望させないための手段として広く行われています。

死は必ず来る

人間は生きている限り誰に対しても例外なく死が必ずやって来て、慣れ親しんだ肉体から離れないといけない時が訪れます。

私達はどんなに歳を取ったにしても自分の体に対しての愛着があるもので、物は捨てることが出来ても自らの肉体は簡単には捨てることが出来ません。

人生の中でも最大の執着心が自らの肉体を捨てることを拒み、肉体を捨てたくない、つまり死にたくないという要求になるのです。

絶対にやってくる死であるにも関わらず、自分の死が来る事を真剣に考える人は少ないもので、特に若い人なら考える必要の無い事であり、考えても仕方ない、或いは考えるだけ無駄だと思うことでしょう。

第一の光明

たまには死後の世界を考えてみませんか…チベット死者の書-死後の世界の詳細と解脱、転生法

私達はどんな長生きしたとしてもせいぜい100年位しか生きることが出来ませんが、永遠に近い長い長い宇宙の歴史から見れば私達が生きている間の100年なんて、ほんの一瞬の出来事であり、私達の魂が長い旅をしているとしたら死なんて一つの旅の終わりであり、そしてまた新たな旅の始まりでもあるのですから、終わってしまうことでは無くて通過点であることに気が付くはずです。

そういう意味では死は必ずやってくるものですから、人によって長い短いはあるものの、次なる旅立ちのスタートでもあるのです。

別れは辛い

臨終のイラスト

次なる旅立ちのスタートだと言われても、最愛の人を残して、家族を残して、慣れ親しんだ環境を後にして旅立つことは、大変に心残りであり、出来るならお別れというものはもう少し後にして欲しいと思うものです。

死とは家族も慣れ親しんだ環境も、お金も自分の持ち物も、今居るこの場所も全て捨て去って何も持たずに一人旅に出なさいという事ですから、そんなことが出来る勇気のある人は居ないと思います。

釈迦は悟りを求めた求道の旅に出る時に家族も名誉も地位も全て捨て去ったことで一切の執着から離れて最終的に悟りを得ましたが、全てを捨て去ると言うことはある意味、死を乗り越えたということであり、そういう所にこそ悟りが存在するのです。

釈迦は悟りの領域に入れば最高の幸せの境地に至ることが出来ることを知っていて、生死を乗り越えた先の絶対安楽の境地に入るためなら、全てのものを捨て去っても惜しいと思うことなく、死ぬことさえも恐れることが無かったのです。

しかしながら人間世界に執着する凡夫の身では、何もかもを潔く捨て去ることなど出来る訳なく、最後の最後まで執着した結果、死後に何も持っていない自分に気が付いても尚、離れようとしないのですが、そのうちに自分の残した物に多くの人が群がって奪い合いをする現実を見せつけられるのです。

感謝の一日の積み重ね

ありがとう

最期の日がもうすぐ来ると分かってしまったら、何をしたら良いかと迷ってしまうもので、改めて考えてみればやり残したことばかり、今から始めても遅い、間に合わないと絶望的になってしまいます。

何よりも大切な家族と別れると思ったら、旅行に行けば良かった、おいしい物を食べさせてあげれば良かったという後悔ばかりが湧き出るものですが、しかし実際はこの大切な時間を一秒でも長く一緒に居たいと思うばかりで、結局は旅行も要らない、おいしい物も要らない、結局は何も要らないという堂々巡りを繰り返すのです。

しかし間もなく最期の日が来ようとも、ごく当たり前の普通の生活を送ることが出来ると言うことに対して自分の周りの全ての御縁に対して心の底から感謝の気持ちを持ち、只それだけで嬉しくて涙が自然と溢れてくることこそ、究極の幸せなのです。

たとえ毎日同じでも色あせることの無い幸せを一日一日積み重ねていくことが全ての人にとっての幸せなのです。

最後は神仏に頼んでみよう

懺悔のイラスト

困った時の神頼みと言われているように、神仏に対する信仰心というものは困った時、悩んでいる時にこそ芽生えてくるものです。

きっかけは何でもいい、神仏の力は眼に見えない力、信じれば頂けることが出来、信じなければ頂くことが出来ないだけのことです。

写経を始めよう

写経の歴史

写経とは仏教の経典を書き写すことで、今の時代のようにコピー機や印刷機が無かった時代には、自ら学んだり仏法を広めていくためには、経典を書き写すことが大切な修行でした。

今の時代では願掛けや精神修行のために行われています。

無料で写経を始めよう…写経のお手本A4用紙版が無料でダウンロード

写経が仏教の修行として人気があるのは、書くことに集中できること、祈りながら書けること、そして願い事を書くことが出来ることです。

祈りながら書いて最後に願い事を書けば完成、病気の人のために書く時には「為東京太郎病気平癒」などの願い事を書きましょう。

自ら修行した修行の功徳を病気の人に送って差し上げることが出来るのです。

お見舞いに行こうと思っていても病院の都合で行くことが出来ない時があるもので、そういう時には病気の人に対して何かして差し上げたいけれど何も出来なくて不安ばかりつのるものです。

そういう時にこそ心を落ち着けて写経をすればとても有意義な時間を過ごすことが出来るのです。

出来上がった写経は高野山真言宗やすらか庵に送れば祈願してくれて、お焚き上げ供養してもらえます。

ここに詳しく書いています…写経の功徳と奉納、お焚き上げ

光明真言を唱えてみよう

大日如来

光明真言は23の梵字からなる真言で、真言宗天台宗で法事や法要の時によく唱えられていて、在家の方でも日常的によく唱えるとても役に立つお経(真言)です。

詳しい解説はこちらです…光明真言で開運を、唱え方と印の結び方

光明真言は先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する効果があります。

誰でも唱える事が出来る真言です、一度試してみて下さい、何かが変わるはずです。

毘沙門天に祈る

毘沙門天の守護

毘沙門天は外敵から家族を守り、魔を寄せ付けないことから、病気平癒の神として有名です。

妃の吉祥天女と子の善膩師童子と共に家族の安全を守る神で、私達の人間世界に近い所で活躍して居られますので、身近な存在であり、家族の姿を取りながらも人としての幸せを説いて居られるのです。

毘沙門天の御札をお祀りしてから一礼二拍掌(二回パンパン)する習慣を付けましょう。

当病平癒、運気上昇-御札

送料込みで500円でお届けします…病気平癒祈願の御札

毘沙門天の御札は居間や寝室などに南か東向きに貼ります。

基本的には明るい方向であればどの向きでも構いません、毘沙門天は人々を明るい方向に向かわせ、心を明るくしてくれます。

願い事は自分勝手な願い事は叶えてくれませんが、人を幸せにするような願い事なら大丈夫です。

人には運命というものがあり、どうしても諦めないといけないこともありますが、最初から諦めるのではなくて、悔いの残らないようにやり通すことはとても大切な事で御座います。

500円で神様との御縁が頂けるのなら安いもので御座います。

御縁というものは自分から出かけていっても中々いただけないもので、向こうからやってくるものなのです。