病気平癒とは

毘沙門天祈願

釈迦の時代から私達人間が避けられない4つの苦しみとして「生老病死」が言われてきましたが、どんなに科学が進んだ現代でも病気になることや死ぬことは避けられないことであり、医者でも薬でも治らない病気があるものです。

しかしながら私達の世界は目に見える世界だけで作られている訳ではありません、目に見えない世界で神仏が居られるのであり、レントゲンや超音波を使っても決して映らない世界からのアプローチで変わっていくこともあるのです。

原因不明の病

病気は治ろうとしている証

私事ではありますが、左脇腹と背中の痛みが1年半ほど続き、ひどい時には仕事も全く出来ないほどの痛みがあり、受けられる限りの検査を受けて、5人のお医者さんに診てもらいましたが、どのお医者さんも口を揃えて「異常なし」とのことで、癌ではないかと覚悟して病院に行ったことを思えばとても有難い診断結果なのですが、本当にどうにかして欲しいという気持ちのみで行くのですが、少しも良くならなりませんでした。

薬もまたいろんな薬を試してみて、全く効き目無しの状態でした。

体調が最悪の時には、外出の用がある時などは、車の後部座席で寝たまま連れて行ってもらったこともありました。

しかし、毘沙門天様を毎日拝んでいる御蔭で、今はその苦痛から解放されています、大変に楽になりました。

治るためにしたことと言えば、他の方の祈願をするためにこのままの体では差し障りがあるので、治して頂けるよう、祈願をしたことです。

人様の祈願はこれまでも行ってきましたが、自分の事は頼まないようにしていましたが、人様のお役に立てることならばと、自分の病気平癒も頼んでみたのです。

健康はとても有難いものです、皆様にも健康になって頂きたいと思います。

病気になった者の苦しみは、なった者しか分かりません。

お医者さんにしても仕事としては治療をしてくれますが、それ以上のことはしてくれません。また、病気は悪いものだという観点からの治療ですので、対処療法ばかりで、本来は体の中に備わった治癒力を引き出すという手法ではないのです。

病気を治すには、時には生き方や考え方をも改める必要があります。生き方や考え方が悪いが故に病気になることもあるからです。

たとえば人に対する恨みや妬みの心を持ち続けると、喜びというものが感じられなくなり、笑うことが出来なくなり、笑った時に出てくるエンドルフィンと言う幸せホルモンが出なくなり、免疫力も弱くなった結果として病気につながるのです。

精神的な病気

対人関係が原因で鬱病になった、いじめ暴力などが原因で対人恐怖症や引きこもりになってしまった、職場や家庭でのストレスが原因で拒食症になったなどの精神的な病は人に話しても分かってもらえないことが多く、何処の病院に行けば良いのかも分からないものです。

現代社会で最も多いのがこの精神的な病気であり、たとえば急に子供が学校に行きたくないと言い出したような時には、行かせるべきかどうか迷ってしまいますが、そういった症状が出る前にはお腹が痛いとか頭が痛いなどのサインが出ていることが多いのです。

そういったことにいち早く気付いてあげて、その原因を真剣に聞いてあげることが大切で、学校に相談するなり病院に連れていくなりの、何らかの対策をしてあげるのが親の務めなのです。

最近では家庭や仕事のストレスが溜まって体の不調を訴える人も多く、世の中が不景気になって不平不満が増える程ストレスの病気が増えるのです。

月曜日の朝に会社に行けなくなって電車に飛び込むサラリーマンによる人身事故は数知れず、明日の我が身と案ずる人たちが満員電車に吸い込まれていくのです。

精神的な病気は環境が変われば良くなることが多く、都会のオフィスで働いていた人が離職して田舎暮らしを始めた途端にすっかり治るようなことがよくあるのです。

命が大事が仕事が大事かという選択肢の中で命が大事と選んだ人の方が案外元気に働いているのです。

霊的な病気

苦しみ

霊的なことに関しては病気ではなくて症状なのかもしれませんが、普通の人が聞こえないような音や話し声が聞こえたり、自分だけしか見えないものが見えることで苦しんでおられる方がたくさん居ます。

誰かに付きまとわれていると感じる人が意外と多く「ジロジロ見られている」「ニタニタ笑っている」などの軽蔑的な行動を感じて、外に出かけるのが怖くなります。

命を狙われていると思えば全く外に出ることが出来なくなり、家は鍵を掛けたまま、部屋のカーテンは閉めたままでなるべく物音を立てないようにうずくまっているか布団の中に入ったままの状態が続きます。

金縛りやけいれんなどを起こしやすい人、霊的な夢をよく見る人はそういう現象がだんだんと恐怖になってきます。

何かに取り憑かれる、悪い気を受ける、呪術を掛けられているなどで苦しんでいる人も居られます。

雲外鏡のイラスト

霊的な症状は病院に行けば幻覚として扱われ、薬はもらえますが副作用で何も出来なくなることが多く、他人に理解してもらうことが困難で、拝み屋や霊能者と言われる人に騙されてお金を巻き上げられて最後に見放されることが多いので、安易な気持ちであちこちに行くと最後には廃人になってしまいますので要注意なのです。

霊的な障害を同じレベルの領域で取り除こうとすれば呪術合戦になって、解決はおろか抜け出すことが出来ません。

魂のレベルが落ちている時になりやすい症状ですから、魂のレベルを高めていけば自然と消え去っていくものです。

仏教の修行は元々魂のレベルを上げて真実を見極める目を開いていくことですから、真実の世界が見えてくれば幻の世界でうごめいている人達の醜さが見えてくるのです。

低いレベルの魂の世界では人が人を傷つけ合い、騙し合い、足の引っ張り合いのとても醜い世界ですから、私達の心も気が付かないうちにそういった世界につながってしまうことがあるのです。

不治の病

不治の病

世の中には不治の病と言ってお医者さんも匙を投げると言いますか、治らない或いは治せない病気があるものです。

要するに「治りませんよ」という病気のことで、治らないから特別な治療をする訳でもなく、痛みがあるのなら緩和するか、余命が少ないのであれば少しでも長くすることが治療になります。

難病に指定されて治る見込みのない病気にかかってしまったら諦めるしか方法はありませんが、それでも西洋医学がダメなら東洋医学、或いは自然療法で、それでもダメなら神頼みなどのいろんな方法にすがりたくなるのです。

現代医学では原因が分からない、治療法が無いというだけのことで、将来は治療法が確立するかもしれないのですし、もしかして自分が治れば同じ病気を持つ人にとって朗報になるはずですから、決して諦めないことが大切です。

不幸の連鎖

我が国では平均寿命が伸び続けていますが、それに伴い癌と言う病気は誰もが普通にかかる病気になってしまいました。

自分の中の健康な細胞が分裂する時のコピーミスで死なない細胞になったことが原因で、普通の健康な人でも毎日5千個の癌細胞が出来ているそうです。

普通の健康な人でしたら体内の免疫が癌細胞を退治してくれるので癌細胞は増えませんが、免疫活動が弱っていたり何らかの異常がある時に癌細胞は爆発的に増えていき、取り返しのつかないことになるのです。

しかし早期の癌程度では自覚症状が無いので定期検診を受けていれば早期発見が可能です。

癌細胞は生活習慣や生活環境、タバコ、ストレスなどの影響を受けやすいので、仏教的な正しい生活は癌になりにくい方法であると言えます。

元々が自分の健康な細胞から発生したのですから、細胞の反乱とも言え、汚れ切った体のお掃除の機能が壊れてしまい、自浄機能が失われた状態なので、体と心の浄化が必要になります。

余命宣告

余命宣告

医者から余命宣告されたら何をしてよいか分からなくなり、何も出来なくなってしまいます。

いつ死んでもいいと思っているような人であって、いざ自分の生きる期限が示されたら、その時価の使い方が分からなくなってしまいます。

残された時間の中でやり残したことをやろうとしても、体調が悪かったり自由に動けなかったりでは満足なことが出来ませんし、結局は何も出来ないままに時間だけが過ぎていくのです。

死がどういうことか考えても分かりませんし、死後の世界など全く分からないのですから、今更準備することなど無いのです。

人間の幸せというものは結局、家族で過ごす普通の一日であって、世界が後一日しかないから好きなことをしなさいと言われたにしても、結局は普通に過ごすことぐらいしか出来ないのです。

結局は余命宣告されたからと言って少々の片付けはするけれど、ごくありふれた普通の日々を送ることが幸せであり、可能であれば病院のベッドで寝ているよりは、自宅のソファに座ってテレビを見ていることが最高に幸せなのです。

しかし生きることを諦めてはいけません、奇跡が起こることがあるからです。

最初から奇跡を当てにしたらいろんな人に騙されてよいカモにされますが、神仏にしても「どうか治りますように」との祈りを続けた結果として、大きなものが動き出すことがあるのです。

病気は治ろうととしている証である

病気は治ろうとしている証

私達の体には自己修復作用が生まれながらに備わっていて、何らかの異常が発生した時には修復しようとする仕組みが動き出しますので、それが熱や咳や痛みとなって現れるのですから、本来あるべき正常な姿なのですが、熱や咳や痛みの症状が苦しいものですから、早く取り除こうとする治療が現代医学の主な方法です。

病気は治ろうとする自然の姿であり、本来は感謝しなければいけないことでもあるのです。

しかしながら病気と言うものは原因がはっきり分かるものばかりではありませんし、治る病気ばかりでもありません。

原因不明で、しかも時間の経過と共に悪化するばかりの病気もあるのです。

しかし原因不明と言っても「真の原因が分からない」だけかもしれませんし、真の原因が分かったところで現代の医学では治せないだけかもしれません。

病気の症状が本来は治ろうとしているはずなのに、治らないのは、私達の目に見えない世界の力が働いているということもあるのです。

神々の役割

神々の役割

八百万の神仏はそれぞれの立場で宇宙の真理を司っていると共に、私達人間に対しては霊性を高めるように導くという役割をされています。全ての魂が悟りに近づくことを望んでおられるのです。

私達は日常生活の中で無用の争いをしたり、人をおとしめたり苦しめたりと、ついつい、悟りとは程遠い行いを繰り返しているのに気付かずにいる中で、そういった日常を反省するための課題として天から与えられた病気であったり、災いであったりすることもあるのです。

そういった病気や災いを治して乗り越えることによって、私達は自らの生活態度と考え方を改め、少しずつ霊性を高まっていくのです。

  • 何故私だけがこんなに苦しまなければいけないのか
  • 天は私にこのような病気を与えるなんて恨んでやる
  • 神や仏に頼むだけ無駄である

このように考える人は病気が治りませんし、考え方を改めないといけません。

病気は恨むべからず

病気を恨む

不治の病を宣言されたり、多くの病院に行っても治らない時には、ついつい自暴自棄になってしまうもので、病気を恨む気持ちになります。

しかし病気を恨んだところでどうにもなりません、昔から病気は疫病神(やくびょうがみ)の仕業と言われますが、疫病神は私達が苦しめば苦しむほど嬉しい訳で、体の苦しみばかりではなく、心の中まで苦しんでもがいていることが愉快なのです。苦しめば苦しむほど疫病神が付いて離れないのです。

疫病神に離れてもらおうと思ったら、体の苦しみは仕方ないにしても、心の中でもがき苦しむことを止めることです、疫病神の嫌いなものは笑い声です。

疫病神は幸せな家庭から溢れてくる笑い声が一番嫌いなのです。

笑うことです、とにかく笑うことです。楽しい事があっても無くても笑うのです。一日中笑っていれば、いつのまにか疫病神はいなくなっています。

そして希望を持つことです、もう死にたいと思えば疫病神の思う壺ですが、希望を持って頑張る人、必ず治ると信じて疑わない人からは疫病神はやがて離れていくのです。

やすらか庵の病気平癒祈願

毘沙門天

やすらか庵では病気でお困りの方に御祈願、御祈祷させて頂きます。

毘沙門天祈願

毘沙門天祈願

毘沙門天は私達に憑りついた悪いものを払うと共に、生きる力を与えてくれますが、誰に対しても無条件で与えてくれる訳ではありません。「病気が良くなったら人の為に役に立たせてください」のような高い志が求められるのです。自分の事しか考えていないような人の願い事は決して成就してくれません。

しかしながら私達は最初から志の高い人などおりませんし、時には堕落したり失敗したりを繰り返しながら人として成長していくものです。毘沙門天はそのような私達の心の中まで見通した上で願い事を叶えてくれます。

私達の自らの努力も必要でございます、神仏は何もかも手助けしてくれる訳ではありません。

古今東西探しても現世の生活の中で役立つ力として、毘沙門天ほど凄い力を持った神はありません。

そして私達の救済のためにはありとあらゆる福徳を備え、私達を導いて下さるのですから、是非とも毘沙門天の大きな力を受けてみてください。

毘沙門天様の大きな力が得られます。毘沙門天の前で願い事の内容を大きな声に出して祈っております。お布施を得るために拝んでいる訳ではございませんので、どなた様でもお気軽にご利用くださいませ。

個別の祈願が可能です、他の方と一緒では落ち着かないなどの場合には個別の祈願がおすすめです。

毘沙門天の祈願で病気が治った方がたくさん居られます。

祈願料は気持ちの御布施だけで結構です、一度試してみて下さい。

皆さん「こんなに真剣に拝んでもらうようなことが無かったのでとても有難い」と感激されます。

お電話の上でお参り下さいませ。

やすらか庵 043-228-1480

諦めないこと

継続は力なり

釈迦の悟りは「諦め」で、こだわりや執着を捨て去ることで、こだわりや執着というものは悟りを邪魔する煩悩だからです。

不治の病になったとしたら、ある意味諦めという事が必要かもしれません。

執着心が原因で病気になったとしたら、諦めてしまうことによって治ります。

諦めるとは「どうせ人間は死ぬのだから、いつ死んでも構わない」と悟ることです。

しかしこれば確かに気持ちは楽になるかもしれませんが、それでも人間である以上は「生きたい」という願望があって、その願望があるからこそ家族で喜び合い、更には「より良く生きたい」という願望こそが人間としての幸せなのです。

毘沙門天は戦いの神ですが、相手を滅ぼすのではなくて、戦いになった時でも「負けない」ことを徹底しているのです。

病気に負けないということは、生きることを諦めないということです。

一日祈願「病気平癒」御札送ります500円

当病平癒の御札

お申し込みがあった方の一日祈願をした御札を郵便料金当方負担、500円のお布施でお送りします。

私の手書きの一言メッセージ付きです、一人一人違う内容です。

この当病平癒の御札は必ず毘沙門天の前で祈願をしてからお送りしますのでお申し込みから到着まで1週間ほどかかりますが、凄い効果があるとの報告をたくさん頂いています。

病気で入院していたり、長引くようなことがありますと、ご本人が辛いのはもちろんですが、家庭にも深刻な影響を及ぼしてしまいます。

病気は「気の病」と書きますように、「気」の部分がとても大きく、「気」をどのようにして受け取って頂くかが運命の分かれ目になるのです。

先日も集中治療室で家族を呼ぶように言われた方の祈願をしましたが、無事に退院できたとの知らせを頂きました。

一日祈願「当病平癒」お申し込みフォーム