八百万の神とは
我が国には古来より自然の中のあらゆる物に神が宿ると信じられてきましたが、八百万と言う数字は「無数の」「とても多い」ことを表す数字であり、無数の神々が存在するのです。
八百万の神の由来
文献上に最初に登場するのは「古事記」上巻の「天の岩戸」の段にある「八百万神、天安河原に神集ひ集ひて」とあるように、八百万の神が天の安の河原に集まったとされます。
太陽神で最高神でもある天照大神が弟のスサノオノミコトの乱暴な振る舞いに耐えかねて天岩戸の洞窟に隠れる「天岩戸伝説」は有名ですが、太陽が隠れてしまって出てこなくなったものですから、世の中が闇の世界になってしまって大変な事になってしまった訳です。
その際に日本中の神々、つまり八百万の神が集まって天照大神に洞窟から出てきてもらうための相談をしたのが「天安河原」であり、神々の相談の結果、天岩戸の前で宴会を開くことになりました。
天鈿女命(アメノウズメノミコト)が、天岩戸の前できらびやかに舞い踊ると、興味を示した天照大御神が岩戸を少し開いたのでその時に手力雄命(タヂカラオノミコト)が岩戸を全開にし、世の中に再び光が戻ったのです。
アニミズムとの関係
アニミズムとは大自然の中に存在するあらゆる物に霊魂や魂が籠っているという考え方で、有史以来世界中に存在する自然崇拝の信仰ですが、私達日本人の祖先は大自然の中に魂や神々が宿り、木や草はもちろんのこと、石や岩、山にまで神が宿ると信じられてきました。
仏教では魂の輪廻転生する範囲が我々の目に見える世界では動物の世界に限られることを思えば、遥かに広い範囲に躍動感のある世界を見出していたことになります。
天地創造が神の作り出したものだとしたら、作り出された物にも魂が籠って分裂や破壊を繰り返すということが感覚として自然に受け入れられます。
山川草木悉皆成仏
仏教では無機質な物や自然、自然の産物などは修行して仏になることが出来ませんが、「山川草木悉皆成仏」山も川も草も木も全てが仏になることが出来るという思想が我が国で生まれて発展したのは、私達の祖先が自然の中に神が宿るというアニミズムの考えをもっていたからであり、神々と共に暮らすという生活を送っていたからなのです。
我が国での仏教は純粋な仏教を伝承している訳ではありませんが、仏教もまた古来より受け継いだ思想を取り入れたことにより、独自の発展を遂げたのです。
多くの神に囲まれて
私達の周りを見回してみれば、家の中にも家の外にも実に多くの神が祀られていることに気付きます。
一神教を崇拝する人から見たら、例えば家の中で神棚と仏壇の両方が祀られていることなど信じられないことであり、外国人から「信仰する宗教は何ですか」と聞かれて困ってしまう日本人が多いのです。
私達は多くの神を祀るということに関しての罪悪感はなく、むしろ積極的に関わっているのです。
お焚き上げの現場で思うこと
お焚き上げ供養をしていますと、実に様々な宗教グッズや宗教用品、御札、お守りなどが全国から送られてきますが、おそらく効果が無いからと止めた宗教関連の品々を段ボール箱に詰めて送って来られる方が多いことに気が付きます。
「困ったときの神頼み」「捨てる神あれば拾う神あり」と昔から言われますが、困ったときには必ず救ってくれる神を探して回るもので、強力な神が居れば、その神を頼る「にわか信者」が次々と生まれるのです。
これだと思えば一生懸命に信心するのですが、ある程度やってみて「やってみたけどダメだった」というのが止める理由で、買ってしまった宗教用品は捨てたら罰が当たるからとお焚き上げに送るのです。
全てに感謝
八百万の神に限らず、全てのことに感謝できるのが仏の姿です、否定もしませんし肯定もしません、只感謝の気持ちがあるのみなのです。
曼荼羅の思想
曼荼羅の中には多くの神仏が描かれていて機能的に配置されていますが、外周の方には鬼神のような神も居られるのですが、曼荼羅はこの宇宙の構成を表現しているものであり、この世には何一つ無駄な物はないこと、そして存在している物が全て訳あって存在し、必要とされていることを表しているのです。
八百万の神も全て訳あって存在しているのですから、それぞれの役割があって、宇宙を支えているのです。