無関心とは

無関心のイラスト

無関心とは関心が無いこと、興味を持たないことで、見たり聞いたり知ろうとしないことです。

関心について

関心とは心が動かされること、興味を持つこと、良く知りたいという気持ちのことです。

「政治に関心を持つ」「子供の教育に関心を持つ」などの言い方では、心が政治や子供の教育に向いているということを表し、「彼は歴史に無関心だ」という言い方では心が歴史に向いていないということになります。

心が向いているか、いないかで関心と無関心が決まるのです。

関心の対象

何かの対象に対して関心が持てるかどうかは、「興味があるかどうか」という問題になります。

興味があれば知りたい、もっと詳しく知りたいと思うからです。

興味が持てるということは、その人にとって面白いことであったり、楽しいことでありので、私達の心は自然と面白いことや楽しいことに向くようになっているのです。

趣味やスポーツに関心があるのは楽しいからであり、楽しむ者同士で気持ちが分かりあえるからであり、政治や歴史に関心があるのは、たくさん知っていることによって知識が豊かになり、誰かと話をする時に専門の知識をたくさん知っている方が尊敬されるからなのです。

無関心の弊害

誰だってあらゆるものに対して関心を持つことなど出来ませんので、興味の無いことに対しては無関心であり、無理して関心を持つ必要もありませんが、大切な事に無関心であるような場合には重大な問題を引き起こすことがあります。

たとえば家庭内で家族の者に対して無関心であったり、お金の使い方、騒音や片付けなどに無関心であることは家族の不和や近所に迷惑を掛けてしまうことにつながります。

家族に対する無関心

家族に関する無関心のイラスト

夫婦がお互いに無関心であったり、親が子に対して無関心であるとお互いに話をすることがなく、話をしなければ余計に無関心になるばかりです。

不満があっても分からない、悩みがあっても分からない、苦しくても分かってもらえないなどは、普段からのコミュニケーションが全く無いか不足していることが原因であり、相手に対する無関心が根底にあるのです。

家族に対する無関心は悩みがどんどん深くなってしまったり、自分勝手な行動につながりやすく、病気や事故などが起こってしまって初めて気が付く、或いはそれでも気が付かないのです。

相手が今何を必要としているのか、何をしたいのか、何に悩んでいるのかなどのことに関心を持って、相手と同じ立場で考えることが大切です。

お金の使い方に無関心

お金が入れば全部使ってしまう、家族にお金を渡さないなど、お金の使い方に全くルーズな人はお金の使い方に無関心な人です。

利己主義、自己満足で、自分さえ良ければそれで良いと考える人のお金の使い方ですが、自分一人だけの時なら自己責任ということで済まされるのですが、たとえば家族の中でご主人のお金の使い方が醜い、或いは家族にお金を全く渡さないなどの場合には、家族に迷惑を掛け続けることになってしまいます。

お金というものは元々神様に捧げるものであり、そのお下がりを使わせて頂いているのですから、自分一人だけ満足するために使うのではなくて、相手の幸せのために使うべきなのです。

騒音や片付けに無関心

集合マンションや住宅地に住んでいて、自分さえ良ければそれで良いという人が意外と多く、周囲に対して迷惑を掛けていることに全く気が付かない、或いは注意されると逆切れする人、ゴミ屋敷になってゴミが外にまで溢れかえっているなどの人達が、ニュースでも頻繁に話題になっています。

自分だけの世界で生きている人達は周囲のことに全く無関心で、周囲から迷惑だと言われても、自分に対して言いがかりをつけているとしか思わないのです。

こういった「困ったさん」が世の中に溢れていますが、困ったさんの特徴としては、周囲の人が迷惑だと指摘すると益々エスカレートすることなのです。

もう我慢も限界と、警察を呼んでも真剣には取り合ってもらえず、裁判になっている事例がとても多いのですが、たとえ勝訴したとしても円満解決するようなことはほとんど無く、近所に住んでいるという事に変わりなく、却って陰湿な迷惑行為をするようになったりするのです。

家庭の中での迷惑行為は話し合いをするしかありませんが、言っても聞かない、聞く耳を持たない、逆切れする相手の場合には刺激しないこと、そして鬼の心にならぬこと、仏の心になることです。

「どうして自分がしなければいけないの?」ということであっても怒りの感情を持つことなく、さりげなく片付けること、これこそが功徳というものなのです。

邪鬼の心になって何もかもぶち壊し、皆がバラバラになってしまうよりは、自分一人だけでも仏の心で居れば良いのです。

毘沙門天と家族

毘沙門天と家族の写真

毘沙門天は妃の吉祥天と子の善膩師童子と揃って家族の神であり、夫は妻と子を守りながら家族の行き先を示し、妻は家庭に福を与え、子は学びながら成長するという幸せの姿を示しておられます。

家族の中での役割分担を持ちながらもお互いのことをよく見て、手を取り合って共に協力していくことが家庭円満の秘訣であり、お互いに「無関心」ではいけませんよと説いておられるのです。

御縁があってせっかく家族になったのですから、仲違いすることなく楽しく、幸せな家族でありたいものです。

家族がバラバラになりそうな時には毘沙門天の力をお借りしてみましょう。

家庭円満の神ですから、真面目に取り組んでいる人を応援して下さいます。

家族の関係が悪くなってしまった時には、皆がそれぞれに原因があるのですが、少なくとも何とかしないといけないという事に気が付いた人が最初に自らの悪い点を充分に反省し、神に対してお詫びをしてからやり直せば案外うまくいくものなのです。

一人がうまくいけば皆もそのことに気が付き、家族の輪がくるくると廻り始めるのです。

一人が変わらないと皆が変わらないのです。

気が付いた人が変わること、それが大切なのです。

たとえばいつも上から目線で物事を決めつけてしまう人は多くの人から嫌われますし、誰も意見を聞こうとしなくなります。

そういう性格が故に損をしてばかりいるし、多くの人から嫌われているのですから、自分の意見が正しいというプライドを捨て去ると、何もかもが変わってきます。

「プライドを捨てること」はとても簡単なことですが、実は難しいこと。

目下の人に土下座して謝ることが出来ますか?

土下座して謝ったところで何も損はしませんが、プライドが邪魔するのです。

しかしいざやってみますと何と清々しい!

その瞬間から世の中の景色が変わってくるのです。

プライドなど持っていても魂の世界には全く通用しない邪魔者です。

却って心を汚してしまうものなのです。

家庭の中では自分が言いたいことをぐっと我慢して、相手の意見を聞くこと、これがプライドを捨てる事、「自分が変わる」ということなのです。