時間とは
太陽は朝に東の空から昇って夕に西の空に沈み夜になり、次の日の朝にまた東の空から昇ることを繰り返していますが、陽が昇ってから次に昇るまでの間を一日としてその間の状況の変化を「時間」だとすれば、私達がこの世に生まれてから死ぬまでの間に何千何万という一日、もしくは何十万という膨大な時間が過ぎ去っているのです。
時間の概念
時間というものは「流れるもの」として表現されることがあり、川の流れのように過去から現在そして未来へと常に流れ続けていると考えられています。
川の流れは上流から下流へと一方向にのみ流れ、一度流れた水は元の場所に戻ってくることはありませんので、常に流れて過ぎ去っていくものだという概念です。
私達の一生もまた生まれてから死ぬまでに時間が流れていき、時間の流れと共に歳を取っていき、過ぎ去ってしまった場所には二度と戻ることが出来ない、という定めに逆らうことが出来ないのです。
時間の別の捉え方としてA地点からB地点への移動という考え方もありますが、それでも私達は生まれた場所から死ぬ場所に行くという移動はあっても逆の移動は存在しません。
智慧
時間というものは過去から現在そして未来へと流れていることを経験上私達は実感していて、それを常識だと思っていますが、未来から過去に向かっている、或いは過去・現在・未来が同時に存在するという考え方もあって、私達には簡単には理解できませんが、それでも私達の持っている知識では大宇宙のほんの少しのことが分かっているだけのことで、大宇宙を動かしている大いなる法則は、悟りの領域に達して得る智慧を通して漸く分かるのです。
神々が身に付けている特殊な能力としての神通力の中の神足通(じんそくつう)とは、自由自在に行きたい所に飛行したり瞬時に移動出来る能力のことで、何処の場所であっても瞬時に移動することが出来、更には過去や未来にも行くことが出来るのですから、現在も過去も未来も同時に存在すると言えるのです。
循環
時間は循環しているものという考え方も出来ます。
時間が川の流れだとしたら上流から下流に一方向に流れて行くだけですが、海に流れて行った水はやがて蒸発して雲になり、雨となって降ることでまた上流の水になるのですから、ぐるぐると廻り続けているのです。
私達の存在する宇宙にしても誕生して成長し、やがて消滅していくことを繰り返しているのですから、宇宙自体が循環していて、時間もまた循環しているのです。
仏教のシンボルである「法輪」は釈迦の教えや真理を意味しますが、仏が説法することを転法輪(てんぽうりん)と言って車輪が廻り続けることであり、止まることなく廻りながら時空を超えて世界中に広がっていくように、との循環の思想が込められているのです。
仏の教えは時空を超えて宇宙に広がっていき、大宇宙に充満しているのですから、宇宙の根源仏である大日如来の教えを聞くことが真言密教の真髄です。
毘沙門天と循環の法則
毘沙門天は天部にありながら妃の吉祥天と子の善膩師童子と合わせて家族の形態をとっていますが、男と女が出会って夫婦となり、子を産み育てて大人になって、やがて次の世代の新しい家族を作るという循環を繰り返す姿を表し、家族としての真の幸せの姿を示して居られるのです。
私達は太陽の動きに合わせて一日二十四時間という時間を所有し、そして一年、三百六十五日の経過で一つ歳を取っていますが、皆が平等に所有している時間の使い方に関しては自由であり、自分の好きなように使えるようになっています。
時間は自分のためだけに使うことも出来ますし、人のために使うことも出来るという選択が自分で自由に出来るのです。
循環の法則の基本は順方向、つまり良い方向に廻すことで、良い方向とは皆が幸せになる方向に時間を使うのです。
相手の幸せを願い喜ぶという、良い方向に廻り続ければ皆が幸せになります。
循環の法則でも逆方向、つまり悪い方向に廻ってしまえば皆が不幸になってしまいます。
何をやってもうまくいかない、病気や事故が続くなどの場合には逆方向に廻っていることが多く、その原因は利己主義や自己満足、他人に対する思いやりの無い行動などがきっかけになっていることが多いのです。
時間が循環しているのだとしたら、私達はその循環のリズムに身を任せ、自分だけではなくて周囲の人もまた心地良く居られるような時間の使い方をすれば幸せの道が開けてくるのです。
残された時間
私達は生まれてから死ぬまでの時間に限りがあり、人生なんてあっという間に終わってしまいます。
私達の人生が一本のロウソクだとしたら、長いロウソクもあれば短いロウソクもあり、途中で消えてしまうロウソクもあるのですが、私達が生まれた時に火が灯されたロウソクはどんどん短くなっていくだけの運命ですから、自分のロウソクがあとどれ位灯されているのかは常に意識する必要があります。
誰もが普通に生活していたら自分の残された時間などは考える必要は無いのですが、不治の病を宣告されて初めて、自分の人生の残された時間について真剣に考えてみたら、何をするにしても時間が足りないという絶望感に襲われるのです。
自分のロウソクの灯の残りが短いと感じたら、自分が生まれてきた理由を知り、残りの人生をどうするか、そして何処に旅立っていくのかということを真剣に考えてみましょう。
私達は必ず人としての使命があり、その使命を成し遂げるために時間が与えられているのですから、時間は宝物、大切に使わないといけません。