思い込みとは
世の中には全く他人の意見を聞くことがなく、他人の意見は間違いで、自分の意見が全て正しいと思っている人がいて、このような人のことを「思い込みの強い人」と言います。
頭の良い人
「頭の良い人」は多くの知識を身に付けて記憶力も良いために、ちょっとした議論になれば必ず論理的に相手を打ち負かし、自分の考えが正しいことが証明された瞬間に、自分の才能に酔いしれて、いろんな人との多くの議論で相手を打ち負かすことが続きますと、自分の考えは絶対的に正しいと思い込み、他人の意見を全く聞かなくなります。
頭の良い人が陥りやすい「うぬぼれ」なのですが、本当に優れた人はどんな人の意見でも聞く耳を持っているものなのです。
頭の良い人は成績も優秀で、その才能の素晴らしさに対して常に多くの人から尊敬されるのですが、多くの人が自分を尊敬していることや、その才能に対して羨望の眼が注がれていることに対しての優位性から「うぬぼれ」につながりやすいのです。
夫婦間では
夫婦の間で奥さんが困っていることとして、ご主人が奥さんの意見を全く聞かずに全て自分の考えを押し付けるというケースがあります。
結婚前まではとても成績優秀で弁が立ち、知識も豊富で何でも知っていて、多くの人から尊敬され、いろんなことに対して熱く語る姿に感動して結婚し、結婚した当初は理想のカップルと言われて周囲からちやほやされたけれど、だんだんと本性を現わして何もかもが命令口調で一方的に決めつけて、たまに反論しても議論で負けてしまっ泣いてばかり。
そのようなことが続けば反論しても無駄だからと、何も話さなくなってしまい、全く会話の無い完全に冷め切った夫婦になるのです。
奥さんのこのような状態は長く続けば続くほどストレスが溜まってしまってうつ病になってしまい、幻覚幻聴に悩まされたり、見えない恐怖に襲われ続けると共に、ご主人からの冷たい仕打ちと恐怖心に対しても闘わなければいけないのです。
ご主人の方から見れば反抗的な目つきで何も喋らない奥さんに対して爆発してしまうのはもう時間の問題であり、言葉の暴力が力の暴力になっていくのです。
言葉の暴力
「優しい言葉」は相手の心を安らげて癒しとなりますが「暴力的な言葉」は相手の心を深く傷つけて、一生癒えない傷となって残ります。
体を使った「力の暴力」では人を殺傷させますが、「言葉の暴力」は一生癒えることのない心の傷となります。
言葉の暴力とは実際に
- 死んでしまえ
- お前なんか必要ない
- 何の価値もない
- 嘘ばかり言うな
- 言う資格がない
- 恥ずかしいと思わないのか
- 何も知らないくせに
- 勉強してから物を言え
- 大した家柄でないくせに
- 学歴低いくせに
- 言う事を聞け
- 言うとおりにしろ
などの言葉を言い放つのですが、言われた方としては自分を否定されて返す言葉がなくなり、深い悲しみに包まれて心の深い傷となって何時までも残り続けます。
優越感は阿修羅の世界
阿修羅は私達人間よりも遥かに優秀で、優れた文明を持っているにも拘らず私達人間の世界よりも一つ低い世界にあるのは、プライドであり、優越感、絶対に自分が正しいという正義感が原因で常にお互いに真偽の論争に明け暮れて、それが戦争になって戦いばかりの世界になってしまったからなのです。
阿修羅の欠点は自分が一番正しいと思っていること、そして相手を絶対に認めないことです。
自分が正しいという事を論争で、更には戦争で示そうとしているのです。
自分の優位性を保とうとしたら、言葉か暴力しかないのは私達人間の世界でも同じことなのですが、優秀すぎるが故に、その優劣の決着を付けようと醜い争いをして、相手を殺傷するのですが、これは絶対にしてはいけないことなのです。
プライドの高い人との付き合い方
「自分の考えは絶対に正しい」このようなプライド人間とはどのように付き合っていったら良いのでしょうか。
気にしない
仏教的に見て最も正しい方法は「気にしない」ことです。
何を言われても全く気にしない人間に成りきることです。
自分が下に見られても、バカだと言われても、生きている価値が無いと言われても気にしないことで、もっと言えば何を言われても必ず「有難う御座います」と感謝の言葉を述べるのです。
普段言わないことを言ったら却って「バカにしているのか」と逆上されそうですが、それでも気にしてはいけません。
これは悟りを得た仏様にしか出来ないことなので、こういった事が出来れば仏様にでも成れるのです。
気にしないことは「悟り」であり、悟った人にしか出来ません。
プライドの高い人はあなたがこのような行動に出れば「バカにしているのか」と怒りますが、それでも全く気にすることなく「有難う御座います」が言えれば立派です。
「気にしない」の実践はとても大切なことであり、心が楽になってくるのです。
馬鹿になりきる
「バカ」とは一般的には相手を軽蔑する言葉で「馬鹿」と書き、馬と鹿のことですが、何故馬と鹿でバカなんでしょうか。
それは馬と鹿がどちらも神様のお使いだからなのです。
馬は神様の乗り物として神聖化され、神に奉納するものであり、生きた馬の代わりとして「絵馬」が奉納されるようになったのです。
鹿もまた神の乗り物として神聖化され、春日大社の祭神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が鹿島神社から鹿に乗ってやって来たという言い伝えから、鹿は手厚く保護されています。
馬も鹿も神様の使いであることから、自分のことを忘れて一切反抗することなく神様の言われた通りに働くその姿を「馬鹿」というのです。
「馬鹿になりきる」とは自分のことを抑えてバカのふりをする、という意味で使われますが、自分のことを忘れて一つの事に集中する姿のことを言っているのです。
神様のお使いは自分のことを全く言わないから尊いのであって、自分のことを全く言わない人は尊い人なのです。
神様のお使いになりきるには、馬鹿になりきってしまうのです。
馬鹿の話は毘沙門天様の教えとして聞いた話なのですが、毘沙門天の使いは虎であり、虎もまた自分のことなど全く言わずによく走り回って使者としての役割を果たしているのです。
毘沙門天は私達の世界のすぐ傍で忙しく働かれていますが、それをサポートするのが使者であり、毘沙門天には八大夜叉大将や二十八使者などの眷属が居て、虎もまた使者としての大切な役割を果たしているのです。
「世のため人のため」にと一切自分のことを言わずに働く姿は実に尊いのです。
プライドの高い人と付き合う時には自分のことを忘れて馬に鹿に虎になって余計なことは考えずにただひたすらに「世のため人のため」という観点から奉仕してみましょう。