散骨と仏教

仏教と散骨

仏教の発祥の地インドでは人が亡くなったらガンジス川の岸で火葬して、その遺骨や遺灰をガンジス川に流すというヒンズー教の葬送の習慣がありますが、これは原始的な散骨の方法です。

ヒンズー教では聖なる川のガンジスに遺骨を流されることで解脱するという考えが昔からあり、死期を悟った人がガンジスの川辺で静かに余生を過ごすという習慣もあります。

釈迦が説いた仏教では修行に専念すること、そして死後の肉体に拘らないことを説きます。

我が国の散骨の歴史

餓鬼草紙

平安時代の終わりから鎌倉時代初めにかけて制作された「餓鬼草紙」には供養塔や仏塔、塔婆のようなものが施された土葬の墓もあれば、棺桶に入れられて放置された遺体や打ち捨てられたような遺体もあって、餓鬼が群がって遺体を食べている様子が描かれています。

埋葬された人は身分が高い人なのでしょうけれど、供養塔の様子から、葬儀などの供養が行われたものと考えられます。

亡くなった人の遺体は村はずれの一定の場所に放置され、風葬されますが、京都の化野(あだしの)は古くからの風葬の場所として知られています。

風葬は遺体を自然の中にそのまま放置するだけですから、原始的な自然葬であり、肉体は鳥や動物に食べられて、更には風化して土に還っていたのです。

風葬は「骨を散らす」という意味では原始的な散骨です。

淳和天皇の散骨

淳和天皇-散骨

淳和天皇(786~840)は弘法大師空海(774-835)と時を同じくする天皇ですが、葬送の簡略と散骨を遺詔した唯一の天皇で、没後はそれに従って山中に遺骨が撒かれました。

桓武天皇の第三皇子で母は藤原百川の娘旅子とする淳和天皇は、上代より行われてきた葬送の儀式が、権力者の力が大きくなればなるほど盛大に行われ、それにかかる費用と年月は、民衆の生活を圧迫していることを憂い、民衆の窮状を救うために、自らの葬儀を簡略にすることを願いました。

淳和天皇は自らの葬儀に関し、「骨を砕き粉となし之を山中に散らせ」と遺詔し、没後は近臣によって遺言通りに火葬をし、遺骨を粉砕して西嶺上山中に散骨したのです。

困窮を極める民衆に対して自らの葬儀を簡単にすることで民の苦しみが少しでも楽になるようにとの思いで散骨された淳和天皇の民に対する思いは、仏教の利他行の実践で、菩薩行とも言います。

1200年の時を隔てた今でも伝わる感動の散骨なのです。

檀家制度

我が国の仏教は「葬式仏教」と言われていますが、江戸時代よりの檀家制度で義務付けられた寺院との関係により、亡き人の葬送、供養を専門に行うのが寺院の役割とされてきました。

死して墓に入り、供養を続けるという形が定着していますが、わが国での法事やお葬式などのあり方は元々純粋な仏教ではなくて、土着の宗教や神道、道教、儒教などの要素が色濃く反映されているのです。

仏教というものが色々なものを取り込んだ結果として今の形がある訳です。

お墓に死者を納骨して供養を続けるという形からすれば散骨は粗末な方法になりますが、そもそも仏教では本来は墓を作らないという事、そして死んだら輪廻転生する事が説かれているのですから、肉体にはこだわらないという考えなのです。

釈迦の仏教

お釈迦様は弟子たちに対して、死後の肉体にはこだわらないことを説かれ、釈迦の葬儀をする時間があるのなら、自らの修行をするように遺言されました。そういう意味では散骨というものは、とても理に適ったものであり、仏教ではこだわらないということの他に、真理を求める姿勢が必要だと説くのです。

本来の仏教は死者の供養では無くて、悟りを得るために真理を追究するためのものです。

我が国におけるお墓の役割は、肉体を土に還すという目的と、「魂の依り代」として魂を呼び寄せるという目的がありますので、仏教がこういった要素を採り入れたからこそ現代まで生き残ったことを思えば、お墓も散骨も有意義なことなのです。

魂の世界は仏教では四十九日までに輪廻転生するとされ、我が国の民族的な感覚としては50年の間、天上に居るとされますが、魂の世界は信仰の世界でもあり、魂は信じた所に行くということでもあります。

後継者が居ないという問題

現代では人口の減少、少子高齢化、核家族化などの現象が確実に進行することによって、これまでのお墓で先祖供養をするというシステム自体が崩壊しつつあります。

後継者が居ないということで、家が絶えていき、墓が無縁になりという問題は今では国家的な問題なのです。

そのような背景があるからこそ多くの人が散骨を利用するのであって、寺院として「散骨したら地獄に堕ちる」「先祖が迷う」などと言っているようでは、今あるお墓と共に総倒れとなって破滅の道を歩むのです。

仏教形式の散骨

今時の散骨は届け出制や許認可制ではないことから、素人軍団の参入合戦で値段サービス競争ばかり繰り広げ、肝心の葬祭であることを忘れてしまっています。

今の時代には供養の散骨で亡き人をあの世にお送りする仏教形式の散骨が必要なのです。

墓を持つことなく、大自然に還りゆく人を読経と共にお送りすることが大切なのです。