往生とは
往生とは阿弥陀如来の極楽浄土に「往」って「生」まれ変わるという仏教用語で、日常用語では困り果てることを言います。
大往生でした
葬儀の時の挨拶で喪主が「故人は大往生でした」と言われる時の大往生は、年齢的に充分に生きて最期を苦しまずにやすらかに眠るように迎えたことを意味します。
極楽浄土が穏やかな仏達の住む苦しみの無い世界なので、大往生は安らかな旅立ちを迎えた人の姿と極楽浄土の仏の姿が重なることからの敬意を込めた言葉として使われます。
病気で苦しむ人の中には苦しみ続けて最期を迎えることがあり、そういう場合には周囲の人の対応も大変ですが、苦しみぬいた最後の表情が悲痛な時であっても安らかな顔に見えるように納棺師が顔を調えて死化粧を施します。
事故で亡くなった方についても納棺師がなるべく安らかな顔になるように顔を調えて死化粧を施します。
苦しみの無い安楽な姿が極楽浄土に召される姿につながることから、どのような場合でも大往生に近付けてあげたいというのが思いやりの心なのかもしれません。
「往」って「生」まれ変わること
人としての死を迎えた時にその人の人生は終わってしまいますが、往生とは生まれ変わることであり、仏教では地獄、餓鬼、動物、阿修羅、人間、天界の六つの世界である六道を生まれ変わり死に変わりして輪廻転生していると説きます。
輪廻転生する六道の世界は上から下までの階層構造になっていて、どの世界にも苦しみが存在し、上の世界である天界には苦しみが少ないけれど、下の世界にいくほど苦しみが増えて、最も下の地獄の世界では苦しみだけの世界になります。
どの世界に行く時も今の生命が終わってから次の世界に往って生まれ変わるのです。
釈迦は私達が輪廻転生する六度の世界が全て苦しみに満ちた世界であることを知り、悟りを得ることによって六道輪廻の世界から脱出して仏の世界に往くことが出来ました。
阿弥陀如来の極楽浄土は南無阿弥陀仏の念仏を唱えることによって阿弥陀如来に救ってもらい、極楽浄土の世界に往って生まれ変わることを願うという意味での往生なのです。
凡人の往生
生きている間に悪いこともたくさんしたし煩悩にまみれた人生だったと自覚する人に南無阿弥陀仏の念仏で阿弥陀如来は救ってくれると説かれても、数回念仏を唱えただけで何も改心しない悪人を阿弥陀如来が無条件に救ってれるのではありません。
阿弥陀如来に対する絶対的な帰依と強い信仰心が必要なのです。
信仰心の無い凡人にとっての人生最期の願いは穏やかに死ぬことが出来ることで、苦しみながら死んでいく人を看取ったことがある人なら、どうせ死ぬなら穏やかに死にたいと誰もが思うのです。
そういう意味でお参りするとぽっくり往生すると言われる「ぽっくり寺」は大繁盛なのです。
凡人が目指すのは真の意味での往生ではなくて皆から「大往生」と言われる死に方なのです。