六根清浄とは
六根清浄とは人間の感覚である五感(眼耳鼻舌身)と心の感覚(意)を清らかにすること。
六根とは
人間の感覚には
- 眼…眼で見る
- 耳…耳で聞く
- 鼻…鼻で臭いをかぐ
- 舌…舌で味わう
- 身…体で感じる
- 意…心で感じる
という六種類があって、五感と呼ばれる感覚(眼耳鼻舌身)と心の感覚(意)で六感になります。
私達は五感或いは六感があるからこそ、音楽や芸術を楽しむことが出来ますし、旅行に行って楽しい、おいしい物を食べて幸せ、など様々な事を楽しむことが出来ます。
六根は楽しむことを感じ取る器官であり、楽しむことによって満足感が得られます。
六根と煩悩
私達は六根によってこの世の世界の色々な娯楽を楽しむことが出来て、楽しんだ時の満足感は快感でもあります。
しかし満足感というものは時間が経つと消えていくものであり、やがては心が満たされない状態になり、やがては満足する対象を求めて彷徨うのです。
満足感は食べ物を食べることと同じで、おいしい物をいっぱい食べた時にはお腹が満足するのですが、やがて時間が経てばまたお腹が空いてきて、次は何を食べようかと考えるようなことを私達は生きている間、ずっと繰り返しているのです。
満足感を得たいという欲望の正体が煩悩であり、煩悩は満たされても満たされても次々と湧いてくるものであり、満たされる度に大きくなっていくのです。
私達は生まれつき六根を満足させたときの快感の感覚を持ち合わせていますし、本能的に苦しいことよりも楽しいことを選んでしまいますので、楽をして楽しい人生を送ることが誰もが望む幸せの姿なのかもしれませんが、それは煩悩の赴くままに生きるということかもしれません。
しかしながら煩悩を満足するだけの幸せは必ず消え去るものであり、本当の幸せというものが不滅の幸せであり、煩悩を追い求めるだけで終わってしまうような人生で良いのだろうかと気が付いた時に、欲にまみれてしまった六根を悔い改め、六根の汚れを落とすことが仏教の修行なのです。
懺悔、懺悔、六根清浄
山伏の修行で山中を歩く時に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながら歩くのは、煩悩にまみれた自分の過去の過ちを悔い改め、自然の中を歩きながら六根の穢れを落とすためなのです。
滝に打たれる修行もまた六根清浄の修行であり、六根の穢れを滝の聖なる水で浄めているのです。
満足と小欲知足
私達は自分の欲望を満たすために他人を傷付けていたり、迷惑を掛けていても、案外自分では気が付かないもので、そんなことはお構いなしに欲望を満たすだけの人生で終わってしまって本当に良いのだろうかと思いませんか?
しかし欲望は人としての幸せの姿でもありますから、在家で生きていくには必要なものですが、まだ欲しい、まだ欲しいとまるで餓鬼のように欲望を追い求めるばかりしないで、満たされたことで満足することが大切です。
そういう意味では小欲知足がまさに仏教的生活の実践であり、少しの欲で満足することを知っている人は六根が穢れるようなことが無く穏やかで平和であり、決して人を傷つけることなく他人のことを思い、人としての最高の幸せの姿であり、天界にも通じるような幸せの姿なのです。