葬式仏教とは

枕経

仏教は2500年前にインドで実在した釈迦を教祖とする宗教で、人間世界からの苦しみから解放される悟りを説く宗教ですが、我が国に伝わっている仏教は本来の仏教の姿ではなくて出家者が檀家の葬式ばかりしているので批判的な言い方として「葬式仏教」と言われますが、その理由についての考察です。

釈迦の悟りの内容

梵天勧請

仏教の開祖である釈迦は今から約2500年前のインドで、難行苦行の果てに悟りを開いて仏になった実在の人物で、釈迦が悟りを得てからしばらくの間は悟りの境地を堪能していましたが、果たしてこの悟りの内容が難解であり、人に伝えることが出来るかどうかと思惟していたところ、釈迦の悟りを見守っていた梵天が釈迦に対して衆生に法を説くように請願し、三回目の請願で釈迦は法を説く決心をしたそうです。

梵天は帝釈天と共に仏教の守護神として釈迦に付き添い、仏法興隆のために尽力したのです。

釈迦の悟りの内容が難解であることから釈迦に続く悟りを得る者が現在に至るまで中々出てきませんが、釈迦が説いた仏教は在世当時の教団に所属する弟子から次の弟子へと伝えられ、更には弟子達が命懸けの旅をしながら世界中に仏法が広がっていくのです。

初期の仏教は釈迦が弟子達に説いた説法を暗記してそのまま伝える方法で、その法を頼りに釈迦のたどり着いた悟りの境地を目指して修行するのが出家者の役割であり、その出家者を金品で支えるのが在家の信者の役割だったのです。

我が国の仏教

供養について

我が国の仏教は釈迦の説いた悟りを得るための仏教がそのままの形で実践されている訳ではなくて、幸せに生きるため、亡き人の供養のためなどの目的を持っていますので、釈迦の教えから遠ざかっています。

釈迦以降の約2500年の間にヒマラヤの山脈を越えて中国で花開き、更には海を越えて我が国まで伝来した仏教は現地での宗教観や思想などを取り込み、更には時の権力者の政治的な利用などによって形を変えながらも発展していったことは大きな特徴なのです。

我が国では古代には死者の霊は時として荒れ狂い悪事を働くものとされ、特に権力争いなどで殺害された者の霊は祀って鎮めないと祟るされました。

古墳時代の死者が屈葬と言って折り曲げられていたり石を載せられていたりするのは、石を載せることによって外に出て暴れないようにするためであり、墓石は元々自然石で、埋葬された死者の上に載せるものでしたが、死者が出てこないようにするためでもあったのです。

死者の霊は丁重に扱わないと厄災をもたらすと考えられていたのですから、死者の供養をする司祭者は大切な役割を担っていたのです。

そういう意味では仏教の出家者が死者の供養をすることは我が国の歴史からすれば自然な流れなのです。

釈迦と葬式

釈迦は自分の肉体がこの世での寿命が尽きることを悟り、入滅を弟子に予告して、自分の亡きあとは「自灯明法灯明」つまり「他を頼りにすることなく自分を灯明の明かりとして進み、正しい法を灯明の明かりとして進みなさい」と説き、自らの肉体の後始末は在家の者に任せ、出家者は修行することを怠らないようにと述べたのです。

つまり出家者は修行することを最優先にして葬儀などをしている場合ではないというのが釈迦の教えだったのです。

悟りへの道は果てしなく困難なことだから、とにかく他の事には捉われることなく修行しないと、せっかくのチャンスを活かしきれずに終わってしまうことを憂いたのです。

お坊さんが黒い衣で家に来たら

四十九日の祭壇のイラスト

タイなどの仏教国では僧侶がオレンジ色の衣を着て鉢を持って家々を廻れば托鉢に来たのだとすぐに分かりますが、我が国ではお坊さんが黒い衣を着て近所の家に入ったら「誰が亡くなったのだろうか」という噂が立つほど「お坊さん=お葬式」というイメージが強いものです。

更には「結婚式は教会の牧師さん、葬式は寺院のお坊さん」とも言われますと完全にイメージの世界ですが、一般の方の印象としては大抵このようなものなのです。

葬式は亡き人をあの世にお送りする儀式であり、亡き人を仏門に入門させて仏の世界を導く役割を担い、導師と言われて行う作法は「引導」つまり亡き人の手を引っ張って導いて差し上げるのですから、中々大変な事を行っているのです。

にも拘わらず「葬式仏教」と言われるのは、寺院の僧侶が本来の仏教の仕事をしていないと見られているからであり、本来の僧侶の仕事は「衆生の苦しみを取り除き楽を与える」ことと「仏法を広める」ことですから、檀家さんの法事葬式ばかりしていて、一般民衆の救済や仏法興隆の活動が日常的に行われていないことへの批判的な意見なのです。

死後の世界と仏教

死後の意成身

中国の北西部にあって仏教(密教)国であるチベットでは死者が出ると今でも死者の枕元で四十九日の間師僧であるラマによって毎日詠まれるチベット死者の書は、実用的な経典として使われており、死者を解脱に導く方法、或いは解脱できなくても良い生まれ変わりに導くための方法を説いています。

私達の魂は六道の世界の輪廻転生を繰り返し、死者は四十九日までの間に悟りを得なければ六道のどれかの世界に生まれ変わるとされ、師僧によって死者には毎日、悟りを得るための方法が説かれ、万一悟りを得ることが出来なくとも、良き世界への生まれ変わりを導くのが師僧の務めなのです。

ここでは明らかに死者に対して師後の世界を導くという作法をしていますので、師僧の役割は重大で、死者を導くという意味では仏教の僧侶としての大切な役割を果たしています。

我が国の僧侶は死者の葬儀や法事の席でも経典を詠んで布施を貰って帰るだけで、戒名授与についても仏弟子として頂くのに対する布施としては高額すぎるという批判がありますが、これについても僧侶が死者を本気で導くことと仏法を広めることに対する情熱が感じられないことからくるのではないかと思います。