鋳掛屋とは
鋳掛屋(いかけや)とは穴が開いたりひびが入ったりした鋳物の鍋や釜などを同質の金属またはハンダで修理するために、ふいごやハサミ、金槌などを持ち歩いて行商した行商人の事。
鋳掛屋の居た時代
鋳掛屋は特定の場所で鋳物を作り続ける鋳物師から別れた職業で、江戸時代になって鋳造された鍋や釜が庶民に普及したものの、高価な物であったために、壊れても修理をして使う必要性から、行商スタイルで修理専門の鋳掛屋が増えていきました。
庶民の使う鍋窯などの鋳物に関しては砂鉄などの原材料の質や製造技術があまり良くなかったために、製造過程で入るスやひびなどによる損傷が多かったことにもよります。
鋳鉄は熱や水に強く、熱をよく伝え、洗えば綺麗になることから、煮炊きの道具としての鍋や釜などの製品に使われるようになりましたが、金属自体がまだ庶民に大量に普及することのなかった江戸時代には、盗賊に狙われるほどの貴重品であったために、穴が開くようなことがあっても簡単に捨てるようなことはありませんでした。
天秤棒に居かけ道具をぶら下げて歩いて回る鋳掛屋の行商は明治、大正時代、或いは昭和20年代まで居たそうですが、近年では見ることが無くなった職業です。
鋳掛屋が居なくなった訳
昭和時代の戦後になって高度経済成長の波が押し寄せてからは、近代化を目指して大量生産、大量消費の生活様式は豊かさの象徴となりました。
それでも昭和の時代まではまだ物を大切に使うという意識が多くの人にあったのですが、今の時代は物が壊れても修理することはなく、まだ使える物でも新しい物を使いたいという理由で買い替える人が増えてきました。
私が同じ機種のガラケーを「壊れていないから」という理由で10年以上使い続けている間に、周囲の人達はスマホを4~5回は替えている、それが当たり前の世の中であり、私が使っている携帯電話は生きた化石のような存在になっているのです。
今頃の鍋や釜はそう簡単に穴が開くようなことはありませんが、万一穴が開いてしまったら、誰もが間違いなく捨てる事でしょうし、修理するなんて考える人は居ないでしょう。
鍋やフライパンはもはや修理をして使うような物ではありません。
調理家電製品が次々と新しい物が出てきて買い替えるのと同じように、デザインの良い物や使い心地の良い物があれば買い替えることが当たり前の世の中なのです。
物を大切に
私達が持っている欲望は世の中を豊かにしていますが、その反面環境に負担を掛けたり、世界中で資源の奪い合いなどの争いごとに繋がっています。
「もっと欲しい、まだ欲しい、新しいのが欲しい、もっと良いものが欲しい」という欲望はとどまることなく次々と湧いてくるものです。
この欲望こそが使い捨てという習慣に繋がり、物を大切にする精神を失わせているのです。
今の時代に鋳掛屋は居なくなってしまいましたが、鋳掛屋が居なくなったからと言って私達は物を大切にするということを忘れてはいけません。
我が国では昔から道具は百年使えば付喪神(つくもがみ)になると信じられてきました。
たとえ道具であっても長く使っていくうちに魂がこもり、生き物として振る舞ったり、時には神になるようなこともあるのです。
リサイクル
今は世界的な資源不足の影響で金属の買取価格も上がっていますが、買取価格に関係なく、資源は限られた物であるという観点からリサイクルしましょう。
新しいものや使用の少ない物でしたらオークションやメルカリで販売するという方法もあります。
但しリサイクル出来るからと言って次々と買い揃えるのではなくて、どうしても手放す時には感謝の気持ちでお別れして下さい。
やすらか庵のお焚き上げ供養には時々、故郷の母親が使っていた鍋やフライパンなどがどうしても捨てることが出来ないという理由で送られてきますが、感謝の気持ちを天にお送りする、或いは亡き人に供養を届けるという意味ではとても良いことだと思います。
鋳掛屋に学ぶ仏教的生活とは
出家した僧侶が本来自分の持ち物を持たないのは、欲望を断つためです。
本来の僧侶の持物は三衣一鉢のみなのです。
物を持つことでもっと欲しい、まだ欲しいという欲望が生じると共に、人に取られないように守る必要が出てくるからで、そのような執着の心は仏教の修行の邪魔になるだけなのです。
小欲知足とはどちらかと言いますと在家の方の生活の指標になるのですが、少ない欲望で足るということを知ることは、とても大切なことなのです。
フライパンの取っ手が壊れたら大抵の方は捨てる事でしょう。
しかし少しねじが緩んだだけならドライバーで締めなおすだけでまた使えるのです。
修理をして満足し使い続ける事、これもまた小欲知足なのです。