戒名とは
戒名とは仏門に入った者が修行をするために釈迦の弟子として新しく生まれ変わったということで授けられるものであり、釈迦が説いた「法」の流れを受け継ぐという意味で法名とも言います。
戒律を授かること
戒名は「受戒」と言って、仏門に入って守るべき戒律を師僧から授けられますので、戒律を守るという前提条件のもとに入門が認められて戒名が授けられるのですから、本来はそういう儀式が必要であり、僧侶が行う葬儀の中には当然、受戒の要素が含まれているのです。
本来は生きている時に仏門に入って、戒律を守る生活をするのが仏教徒としての務めなのです。
仏門に入る究極の目標が悟りだとしても、戒律を守るという実践は、功徳を積んで死後の世界に備えたり、魂を浄化して仏の智慧を身に付けたりすることにつながるのです。
法を受け継ぐこと
仏教では釈迦の説いた法は、何時の時代であっても真理を説く法として受け継ぎ、そして法を受け継いだ者はその法を広めていくという使命があるのです。
法を受け継ぐという意味では必ず師匠が必要であり、師匠から弟子へと脈々と法は受け継がれていることから、法名(戒名)は師匠から正しい法を受け継ぐという目的のために頂くものです。
釈迦の説いた法が約2500年の時を経ても私達に伝わっているということは、そういった師僧たちの努力と情熱の賜物であり、私達は戒名の中にそういった流れを感じ取ることが出来るのです。
師僧の堕落
檀家さんであれば檀那寺の住職が師匠になります、師匠が居ない人は師匠を探すべきなのですが、今の世の中、場合によっては師匠自体が堕落していたりするもので、法を広めるという活動を全くしていない僧侶も実際には居るのです。
法を説かない僧侶から法名を頂いても意味の無いことかもしれませんし、自分で付けた方が良いかもしれませんが、出来る事ならご縁でございますので、一生を掛けてでも理想の師匠に出会えましたら、ご自分の魂にとって大変に有意義な人生になるかと思います。
師僧というものは本来は人生の指標を示すものであり、悪を指摘し、正しい法を説く立場であるべきなのです。
最近は檀那寺の僧侶が仏法を守っていない、尊敬できない、お金のことばかり言う、人の話を聞かないという不満の相談をよく受けます。
本来の寺院は寺子屋と言われたように学ぶ場所であり、修行する場所であったのですが、今の時代はお金をとられるだけの所であるという悪口を言われる寺院が増えているのです。
戒名料が高い
戒名料は実際には寺院としての大切な収入源になることは間違いありません。
大きな寺院を運営していこうとしたら意外とお金がかかるもので、法事やお葬式などの収入が無いと成り立たないのです。
しかしそれにしても戒名をちょっと考えて付けるだけで何十万円だと言われたら、別に特別なことは何もしていないのに、どうしてそんなに高いのだろうかと普通の人は普通に思うのです。
今どきの時代、50万円もあれば大型テレビや冷蔵庫、パソコンに調理家電など結構な物が買えますが、戒名を付けるだけで何も貰うものが無くて50万円はさすがに高いと思うものです。
仮に一番安くて5万円と言われたにしても、私達が毎日1円でも節約してやっと貯めたお金を如何にも不満そうな顔で持って行かれるということに嫌悪感を感じている人が少なからず居るのです。
戒名にもランクがありますから別に安い戒名を頂けば良いのでしょうけれど、先祖からのランクが決められていたり、途中で変更できないなどのシステムが嫌われているのです。
戒名を自分で付けること
戒名は僧侶しか付けることが出来ないのでしょうか、それとも自分で付けても構わないのでしょうか。
仏門に入る
戒名を寺院で貰うと高いから、寺院の檀家ではないからなどの理由で自分で戒名を付けることに問題はありませんし、お墓の戒名盤に刻んでも構いません。
しかし単なる見栄のためとか、お金がもったいない、人に見せびらかすためのものなら自己満足に過ぎませんので、戒名の意味が無いと思います。
仏門に入るという事は自己満足ではなくて、魂を磨くためですから、仏の世界は見栄や自己満足は通用しない世界なのです。
但し自ら強い意思を持って釈迦の弟子となり、自らの悟りと仏法興隆のために尽くすことを自分の中で誓う事が出来れば、とても素晴らしいことであり、釈迦の弟子として戒名を名乗って良いと思います。
遊び心で
今の世の中ちょっとした遊び心で自分の戒名を考えてみたという人が結構いるものです。
2021年11月21日、喉頭がんで亡くなった立川談志さん(享年75)は生前中に自らの戒名として「立川雲黒斎家元勝手居士」と決めていたそうです。
「うんこくさい」という部分がとてもユニークです。
生前中にもしもの時には僧侶は呼ぶなと言っていたそうですから、正式な戒名として認めてもらえないということを承知の上で付けたのでしょうけれど、宗旨宗派を問わずに墓石には何を書いても構わないという寺を親族が見つけて墓地が建立され、お墓には実際にその戒名が刻まれているそうです。
宗教など関係無しに遊び心での戒名なら構わないという例です。
しかし普通の人が同じことをしてもこのような注目を浴びることは無いでしょう。
戒名を自分で付けるなら
戒名を自分で付けるのなら、せめて戒律を学び、守るようにすれば仏門に入った者としての役目を果たすことが出来ます。
今どき僧侶であっても戒律を厳格に守る人は居ませんので、そういう意味では貴重なことです。
戒律を守ってこそ戒名が生かされるというものなのです。
ある意味戒名がなくても、戒律を守るというだけでも、素晴らしく価値のあることだと思います。
仏縁というものは、師僧にしても神仏にしても思いがけない所から舞い込んでくるもので、一つの良い御縁がまた次の良い御縁を運んでくるものですから、御縁と言うことを大切にしてさえいれば、神仏の加護が得られるのです。
そういう意味では良い師僧との出会いがあって、その師僧から戒名を授かることが出来るのなら、人生にとって大いにプラスになるのです。
やすらか庵の僧侶であります私でよろしければご縁を結ばせて頂きます。