相手の身になって考えるとは
誰もが自分の考えが正しいと思っているのは当然ですが、自分の考えと違う意見に対しては認めないばかりでなく、暴力や圧力で相手の考えを変えさせようとしていませんか?
考えや意見は違って当たり前
人の考えというものは一人一人が生まれ育った環境や学んだ学問・思想・宗教、人間関係、仕事や趣味、人生経験などによって形成されていますので、全く同じ考えの人はこの世に存在しません。
一人一人の考えが違うからこそいろんな人がいろんな場所で活躍できるという、豊かで多様性に満ちた世界が実現するのです。
真言密教の曼荼羅にしても多くの仏・菩薩・明王・天などがそれぞれの役割を担って大宇宙を形成し、それぞれの役割を担う歯車が複雑にかみ合うことで大宇宙が動いていて、たとえ一つでも歯車が機能しなければ全体が止まってしまうのですから、この世の世界には無駄な者が一人も居ないのです。
相手はどう思っているだろうか
自己中心的、自己満足な人は自分の考えが全て正しく、自分とは違う考えを認めようとしません。
世の中にはどの世界にもカリスマ的な人が存在しますが、自分の考えは正しいから言う事を聞け、言う事を聞かない奴は出ていけ、クビだということで、自分の考えを強引に押し付けたり違う意見の人を排除したりということが、世の中の混乱を招いたり争いの元になっています。
実際問題として多くの人の意見を聞いて考えることよりも、自分の考えを強引に進めていく方が手っ取り早いのですから、自分の思い通りに物事を進めていこうとする方法としてこのような強引な手法がまかり通っているのです。
人は時々自分の考えが正しいかどうか分からなくなる時があり、そういう時には自分自身から少し離れた位置に心を移してそこから客観的に自分を見ることによって、冷静な判断に結び付きます。
更に相手がいる時には相手が自分の事をどう思っているだろうか、本当の気持ちはどうだろうかと考えることによって更に冷静な正しい判断に結び付くのです。
時には自分自身を外から離れて見て見ることが大切です。
自分の心を相手に移動する
心というものは普通は自分の中にあって自分の次なる行動を指示したり善悪の判断をしているのですが、心が「コロコロ」と言われているように常に一定の場所にある訳ではなくあちこち動き回るものであり、自分の中から飛び出して趣味や旅行のことを思ったり、興味の対象や空想の世界で遊んで戻ってくるようなことを繰り返しているのです。
瞑想修行にしても心を体から切り離し、大宇宙を旅することも出来ますし、目の前の仏と一体化することも出来ることから、自分で心の行き場所をコントロールすることが出来るのです。
時には自分の心を相手に移動することによって相手の気持ちが分かることがあります。
自分の心を相手に移してその相手になりきるのです。
何気ないことで相手と喧嘩して激しく相手を罵った時でも後で冷静になって自分の心を相手に移動させてみると、何故怒ったかという相手の怒りの本質が見えてくることがあるのです。
何はともあれ喧嘩した時には先に謝れば済むことですし、お互いにプライドがあるから謝らないだけの話で、謝ったからと言って何かが減る訳でも無し、喧嘩してしまったら最終的には謝った者が賢者なのです。
毘沙門天が妃の吉祥天と子の善膩師童子と共に家族の姿を取っているのはそれぞれが相手を思いやりなさいと身をもって示しているのであって、家族の平和が世界の平和に繋がるからなのです。