除霊とは
除霊とは人や物に憑いている死者や動物などの霊、生霊などを取り除くこと。
霊障について
霊障とは霊が体に憑りつくことによって体に異常が出ることを言い、具体的な体の部位の痛みとなったり、倦怠感、無気力状態、精神異常などの症状が出ることもあります。
特に悪霊と呼ばれる霊に憑りつかれるとまるで別人になったように荒れ狂う、恐ろしい言葉を発する、目つきが変わる、動物のような仕草をすることがあります。
霊障の症状
私の悪口を言っている声が聞こえる、誰も居ない場所に人の気配を感じる、私の命を狙っている者が居るなどの目に見えない者の仕業に悩まされるのが霊障の主な症状ですが、自分しか分からない現象なので、人に説明しても分かってもらえません。
霊障の症状は決まった形のものがなく、寝ている時に金縛りで苦しくて目が覚める、などのことから始まって自分の首を絞めている、上から押しつぶそうとしているなどの目に見えない者の存在を感じるようになります。
霊障が普通の病気と違う所は元々性格の明るい人が突然暗い性格になってしまったり、目つきが変わってしまう、目の焦点が定まらないなど別人格になることが多いようです。
霊障のきっかけ
霊を信じない人や、霊の世界に全く縁の無いような人であっても自分自身が原因不明の病気になったり精神的に不安定になってしまい、最新の医学の力でもどうにもならなかった時に初めて何か目に見えない物のせいではないかと思うようになるものです。
霊的な物に憑りつかれますと、精神的或いは身体の異常を感じるようになりますので、病院に行くにしても内科、外科、神経科、精神科などに行って検査しても数値的な異常が出ることなく、異常なしと言われて適当な薬を処方されるだけなのです。
しかし原因不明の異常が全て霊障の仕業であるという訳ではありませんし、実際問題としては本当の霊障というものはほんのわずかな事例に過ぎないということを正しく知っておく必要があります。
霊障は霊能者の金儲けの道具になり易い
世の中には霊の世界で身体を張って真面目に戦って居られる方も居られます。
しかし霊というものが私達の目には普通に見えないものであるが故に体調不良や精神異常を霊障と断定し、しかもその原因として前世の勝手なストーリーを作ってしまう霊能者が世の中には居るもので、そのようなことを言われた本人はもう信じて助けてもらうしかありません。
霊を払わないと大変な事になると言われ、更にお祓いをするのに数十万円の費用が必要だと言われたらもう救ってもらえるのなら、幾らでもお金を出すという気持ちになるのです。
そのような霊能者に騙された人は大金をつぎ込むばかりでなく、益々体調を悪くして廃人同様になってしまう事例が後を絶たないのです。
除霊の仕方
霊に取り憑かれるような人は気の弱い人、心優しい人が多いのですが、何でも霊の仕業ということにしてしまうと、本来は普通に医学的治療で治る病気が治らなくなってしまうようなことがありますので、体調不良を感じたらまずは病院に行ってみるべきです。
除霊とは霊を取り除くことですから、霊を供養して取り除く方法と、強い神に護ってもらう方法の二つの方法があります。
供養する方法
私達人間界の周辺で彷徨っている霊は、不幸な亡くなり方をしたり強い恨みを持ったまま亡くなった者が、悔しさなどの強い気持ちが残ってしまい、死後の世界に行くことが出来ずに迷っていて、供養して欲しさに優しそうな人に取り憑くことがあります。
霊が人に取り憑くのはあの世に行くことが出来ずにこの世で彷徨っていて、誰も気付いてくれないし、助けてくれることがないので、まるで喉が渇いた者が一杯の水を欲しがるように供養を欲しがるのです。
死者に供養を施せば迷うことがありませんので、供養は魂を鎮める効果があるのです。
私達の周りで彷徨っている霊達は供養という事を通して仏法に触れ、彷徨うことから脱すれば一つの魂が救われたということになるのです。
供養するとは魂の救済をするということなのです。
困った人を助けるのと同じように、彷徨う魂を救済することは仏の仕事なのです。
施餓鬼も餓鬼を救うための供養であり、お盆の行事に繋がっています。
盂蘭盆業(うらぼんぎょう)によりますと釈迦の十大弟子の一人で神通第一と言われた目連が神通力で自分の亡き母を探していると餓鬼の世界に堕ちてしまってやせ細り苦しんでいる姿を見たので、母を救おうと食べ物を供養しても燃え盛る炎となって食べることが出来ませんでした。
釈迦にそのことを伝えると母は生前中に自らの利益にばかり走り、施すことをしなかったために今の餓鬼の世界に居ること、そして母を救うためには安居会と呼ばれる90日の修行が終わる7月15日の日に御馳走を準備して読経し、供養することを説きました。
目連は釈迦に言われた通りのことを実践したら餓鬼道に堕ちた母は苦しみの世界から救われることが出来たので、この供養の行事が盂蘭盆の起源であるとされ、お盆に施餓鬼をすることの始まりだそうです。
強い神に護ってもらう
人に憑いて悪さをするような霊は低い世界の霊が多く、人の苦しみを喜びとしますので、憑かれた人が苦しめば苦しむほど愉快なのです。
それに対して神仏は衆生の苦しみを取り除き、喜びを与えるのが任務ですから、神仏に守ってもらえば悪い霊が憑くことが出来ませんし、憑いていたとしても出ていかざるを得ません。
強い神という意味では毘沙門天が最強の守護神ですから、毘沙門天に護ってもらえば運気が上昇し、家庭が円満になり、物事が良い方向に廻り始めるのです。
毘沙門天は七福神として、四天王として、家族神としていろんな所で活躍されているのは、私達の身近な所に居られるからなのです。
仏菩薩などの仏達も衆生の救済の任務があるのですが、居られる世界が私達の世界から離れているのに対して、毘沙門天は私達の世界に隣接して居られますし、家族という私達人間世界と同じ姿をとって居られることで、私達の苦悩を良く知っているのです。