枕経とは

枕経

枕経とは僧侶が亡くなって間もなくの死者の枕元で読経することを言い、死者を導くと共に末期の水(まつごのみず)を死者の口元に含ませるなどの所作を伴います。

臨終について

危篤の素材、皆が集まる

最近では自宅で亡くなる人の数は少なく、病院に入院したまま最期を迎える人が圧倒的に多いので、医師が臨終を告げた瞬間から死への準備が始まり、近親者への連絡をしながら病人の傍で最後の看取りの時間を静かに過ごします。

死を迎える人にとって死は恐怖であり、もっと生きていたいという執着がありますので、精神的に錯乱状態になるか意識が飛んでしまうかになりがちですが、それでも身近な人が傍に付いていてくれることが一番の安心であり、どのような状態になろうとも可能であれば手を握りしめ、声をかけ続けて差し上げることに全力を使うべきなのです。

最後の時間の使い方次第では一生後悔することにも繋がりかねません。

仕事上の都合などで親の死に目に会えなかった人が、自分の事を親不孝な人間として、そのことを悔やみ続けていることが多いのです。

最期を迎えた人は医師によって検死の確認が為されたら死者と見做されて霊安室へと移され、いよいよ死後の手配へと移るのです。

死後の手配

危篤で電話している素材

死者の身体は綺麗に清められて姿勢を調えられてから、親族や縁故者への連絡、葬儀社の手配、葬儀の準備などを次々と進めていくことになります。

葬儀の段取りが決まり次第、亡くなった人は病院の霊安室から自宅もしくは斎場、ホールの霊安室へと移されて通夜の準備がなされます。

自宅の場合には死者に「死に装束」を着せてから一旦布団に寝かせて「枕飾り」を飾り付け、この時に僧侶に来てもらって枕経をあげてもらうのです。

チベットでは

忿怒尊のイラスト

亡くなった方の枕元に枕飾りを置いて、死者の傍で僧侶が行う読経を「枕経」と言いますが、チベット密教が今でも実践されているチベットでは、師僧が四十九日の間毎日来て「死者の書」という経典を読誦します。

死者の書の解説は難解ですが知っておいて損はしません…チベット死者の書

死者は亡くなってしばらくの間は自分がどうなったのかが分からない状態が続き、私達が持つ五感である視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を徐々に失くしていくのですが、聴覚だけは残っているので耳元で死者に悟りを得るための方法を説き聞かせるのが本来の枕経なのです。

悟りを得るということは私達の意識が肉体から離れて輪廻の世界から離脱することですから、そういう意味で人の死は悟りを得るための最大のチャンスなのです。

修行をするにしても死を最終目標に置いて修行すれば、それまでに悟れなかった人でも最後のチャンスが訪れるのです。

しかし全く仏法を実践しなかった人や学ばなかった人はもちろんのこと、修行を続けた人でも実際に悟りは程遠い世界なのです。

枕経の役割

枕経の役割としては死者に対して死を覚らせることと、死者を導くことです。

葬儀でも「引導作法」を行う僧侶は死者を迷うことなく導く役割を果たし、死者を仏門に入れて戒律戒名を授け、仏法を説くのです。

死者に仏法を説いても遅いのかもしれませんが、ある意味死はあらゆる煩悩を捨て去って純粋な魂の状態になる時ですから、最高のチャンスが訪れている時でもあるのです。

実際の枕経は

我が国での僧侶は、亡くなったばかりの死者はもちろんのこと、悲しみに暮れる家族に対しても法を説くのが務めなのですが、亡くなってすぐに駆け付けることなんて面倒だからでしょうか、枕経があまり行われなくなっています。

もちろん枕経をしない宗派もありますので一概には言えませんが、枕経という形ではなくても死者の枕元で線香を上げる、灯明を灯す、末期の水を含ませる、そして読経することは深い悲しみの中にある家族にとっても必要なことだと思います。

死を真剣に考えることは、自分がどのように生きたら良いかを考える大切なきっかけなのです。

そのように時に死者の傍に来て死者のために静かに読経する僧侶が居れば、家族の者にとってどれ程心強いことでしょうか。

我が国では葬式仏教と言われながらも、死と真剣に向き合って生きるための法を説く僧侶こそが必要なのです。

枕経をあげることが出来なかったら傍で光明真言を唱え続けても良いです。

光明真言は亡くなった方の救済に特に力を発揮する真言です。