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お気持ちでどうぞ
お寺で法事やお葬式の御布施の金額が分からない時にお寺さんに聞いてみると「お気持ちでどうぞ」と言われることがありますが、果たして「お気持ち」とはいくらのことでしょうか。
気持ちとは
気持ちというものは物事や相手に接した時にいだく感情のことですから、綺麗な景色を見たり心地よい音楽を聴いた時には気持ち良い状態になり、怖い場所に行った時や気持ち悪い音を聞いた時には気持ちが悪くなってしまいます。
人に対しても気持ちの変化はあるもので、とても良い人に親切にしてもらったら気持ち良く、悪い人に騙されたら気持ちが悪くなってしまいます。
気持ちは物事や相手によって良くなったり悪くなったりするのです。
気持ちが良いとは
気持ちが良いとは嬉しくなる、心穏やかになることで、人と人との争いが無く、平和な状態のことです。
私達の煩悩である欲望が満たされた時も気持ちが良いものです。
楽しい旅行、恋人との楽しいひと時、趣味の時間など、心が満たされれば気持ち良い時間が過ごせるのです。
気持ちが悪いとは
気持ちが悪いとは悲しくなる、怒りの感情が湧いてくる、辛くなるなど、争いごとなどが原因で不快な思いをする状態のことです。
私達の煩悩である欲望が満たされない時にも気持ち悪いものです。
失敗した、騙された、思い通りにならないなど、心が満たされない時には気持ち悪い時間を過ごすことになります。
気持ちを金額で表すと
何かのサービスをしてもらった時に支払う金額が「お気持ちでどうぞ」と言われたらどうしますか?
自分で金額を決めるのだから
- その人が使った時間
- その人の持っている技術
- その人の社会的地位
- サービス自体の一般的な料金
- 自分の満足度
- サービスに対するお礼の気持ち
などを考慮して決めることになります。
路上で芸をしている大道芸人の芸を見終わって皆がチップを投げる時には周りの人を見れば大体の金額の察しがつきますが、皆さんあまりこだわりなく気分で出していますので、これが本当のお気持ちなのですが、お寺ではそうはいかないことがあるのです。
結局のところ「お気持ち」に決まった金額は有りませんので正直な所迷ってしまうのです。
お寺の「お気持ち」
お寺の御布施は本来は御本尊様に御供するものであり、神仏に御供えすることにより仏法興隆に貢献する功徳を積む機会を与えてもらったということで本来は出す方が感謝するものなのです。
タイは国民の95%が仏教徒であると言われ、仏教国として有名ですが、僧侶は毎朝街に托鉢に出かけて食べ物などを集めて廻りますが、托鉢は在家の信者にとって仏教教団を支えるという功徳を積むことができるので、そういう機会を作ってくれた僧侶に対しては感謝の気持ちで物品を差し出し、僧侶が礼を言うようなことはありません。
私達は何か貰ったら「ありがとう」とお礼を言う礼儀を身に付けていますので、何かを差し上げた人の方が「ありがとう」という習慣はありませんし、貰っても「ありがとう」を言わない人なんて信じられないことでしょう。
しかし「お布施」というものが「功徳を積むことであること」だと思えば僧侶は皆に功徳を積んでもらえるようにしっかりと修行するべきなのです。
全く修行もしない僧侶が自分の物だと思って受け取る御布施は本来のあるべきお布施ではありません。
あってはいけないことで、信じられないことですが、お気持ちでと言いながらも目の前で封を開け、少ないと文句を言うような僧侶が居るのも事実です。
到底尊敬できないような贅沢三昧で法を説くことをしない僧侶に対してお布施を出したくない気持ちも分かります。
しかし高級車で乗り付けて来て立派なのし袋の中に百円玉一つ入れるような非常識な人が居ることも事実です。
本来あるべき「お気持ち」とは
お寺の御布施に関しては、ある程度の相場というものを知った上で、徳を積むことが出来て有難いということで、お金のある人はお金のあるなりの内容で、お金の無い人は無い人なりの内容で、出来る限りのことをしましょう。
僧侶に渡すという考えではなくて、御本尊様に御供するということで渡しましょう。
僧侶というものは只ひたすらに御本尊様にお仕えしているだけの存在なのですから。
やすらか庵では
毘沙門天祈願でお参りされた方の個別祈願につきましては「お気持ち」ということで封筒に入れて頂いて居り、本当にお気持ちですから、自分の手で御本尊様の所に上げて頂きます。
お焚き上げ供養でお焚き上げ品を持参された方には本殿に上がって頂き無料で拝んで差し上げており、お焚き上げの料金しか頂いておりません。
草取りやお掃除、お焚き上げ供養当日のお手伝いなどの「お気持ち」としての御奉仕行も皆様に奉納して頂いております。
私達は生きている時に、今功徳を積まないと時間がもったいないばかりです。
私達はこの日本に人間として生まれて来て、徳を積むチャンスを与えられているのですから、自分の魂のために、そして御先祖のために、御縁のある魂のために修行しないとせっかく頂いた命を無駄にしてしまいますよ。