目次
因果応報とは
因果応報とは仏教用語であり、物事には原因があって結果があり、原因に応じた報いを受けるということです。
因果応報は仏教用語である
私達はこの世で生きている時にも全ての事象に対して原因と結果があり、死後の世界でも原因と結果を伴いますので、善い行いは良い結果として表れて、悪い行いは悪い結果として表れるので、善行を積むことが求められます。
釈迦の教え
釈迦はこの世に起こる原因と結果について、次のように説いています。
- 善因善果
- 悪因悪果
- 自因自果
善い原因は善い結果となる、悪い原因は悪い結果となる、自分が作った原因は自分に結果として現れる。
この考え方は仏教の基本であり、釈迦の悟りの内容でもあり、大宇宙の法則そのものです。
原因と結果の表れ方
私達の行いの全てに原因と結果があるのなら、原因に対する結果が必ず現れるはずなのですが、例えば悪事ばかり働いている人の事業がどんどん成長して繁栄し、真面目で誠実な人の事業が人に騙されて廃業したりするのは納得いきません。
私達の行いの原因に対する結果というものは、必ずしもすぐに現れるのではなくて、実は何時現れるのか分からないものなのです。
ですから人の物を盗って逃げている時に怪我をしたとしたら、「人の物を盗った」という原因に対して「怪我をした」という結果が現れたかどうかは分からないのです。
仏法では私達が六道の世界を生まれ変わり死に変わりしている中で原因と結果が現れているのであって、悪い行いばかりしていた者は地獄に、そして善い行いの者は天にという輪廻転生にしても、現世での行いばかりではなくて、遥かなる過去の影響を受け続けたりすることもあるのです。
そういう意味では原因に対する結果は私達が生きている時に分かりやすい形で現れるものではありません。
刑務所に入れば仏教上の罪は無くなるか
悪事を働いて警察に逮捕され、刑務所に入れられて既定の刑期を終えれば因果応報と言うことで、仏教上の罪は無くなるのでしょうか。
刑務所に入れば自分の好きな事が出来ませんし、自由も奪われた獄中生活をすることになりますが、犯した罪に対しての罪滅ぼしになりますので、とても分かりやすい因果応報なのですが、これは私達人間社会を平穏に維持するための罰則ですから、仏教的な罰則ではありません。
刑務所に入った人が刑期を終えて出てくれば罪の償いが済んだと言うことになりますが、全く反省することなく、再び同じような罪を犯すようならば仏教上の罪は重くなるばかりですが、真摯に反省して社会の模範となるような人に成れば仏教上の罪は軽くなることでしょう。
いずれにしても仏教では犯した罪が消滅するということではなくて、善なる行いと悪なる行いのどちらが多いかという事が大切なことです。
悪なる行いをした人は、その悪事は消えることがありませんから、それを上回るような善行を積み続けるしか他に方法は無いのです。
善行と悪行とは
私達の行いには善行と悪行があり、死後には生前中の全ての善行と悪行が秤に掛けられて次の転生の行先が決まると言われています。
善なる行いに対しては善なる結果が現れ、悪なる行いに対しては悪なる結果が現れるということです。
但し一つの行いに対して一つの結果が出るというような単純なものではありません。
善行と悪行については何かの決まりがあるかと言えば、それは戒律で決められています。
五戒について
五戒とは仏教の在家信者が守るべき戒のことで、五戒の中でどれか一つでも守れなかったら破戒行為となり、悪行になってしまいます。
悪行は悪い結果を生み出すのです。
在家信者が守るべき五戒で言いますと
- 不殺生戒-ふせっしょうかい- 殺生をしない
- 不偸盗戒-ふちゅうとうかい-盗みをしない
- 不邪淫戒-ふじゃいんかい-淫らなことをしない
- 不妄語戒-ふもうごかい-うそをいわない
- 不飲酒戒-ふおんじゅかい-お酒を飲まない
つまり悪行「してはいけない事」を説いているのです。
不殺生戒
殺生とは生き物を殺すことで、他の人や生き物を殺すということはしてはいけません。
戦争は国を護るためと言えども人を殺すことは重大な犯罪です。
生き物の命と言う意味では不殺生戒は私達の日常の食生活にも影響を及ぼします。
私達は普段の生活の中で肉や魚を食べていますが、不殺生戒を忠実に実践している人は全く食べませんし、世界中の宗教を見渡せばヒンズー教では牛肉を、イスラム教では豚肉を食べないことが有名ですが、他にも宗教上の理由で肉を食べない人達がたくさんおられます。
全ての生き物は殺生される瞬間に苦痛を伴うからであり、命を奪うということは生きる権利を剥奪するということになるからです。
世界中では菜食主義の方や、宗教上の理由で肉魚などを食べない方がたくさん居ますので、肉魚を食べないとたんぱく質が不足するということはありません。
高野山でも宿坊寺院に宿泊しますと必ず肉や魚の無い精進料理が振る舞われます。
殺生は仏教上の罪の中でも最も重い罪ですので、地獄に堕ちるとも言われています。
不偸盗戒
人が所有する物を盗むことはいけません。
農家の人が丹精込めて栽培した野菜や果物を盗ることで農家の人は困ります、駅に置いてあった他人の自転車に乗って帰ると所有者は困り果ててしまいます。
待ち合わせの時間に遅れることは他人の貴重な時間を盗むことになります。
所有者の人に無断で自分の物にしてしまうことや、脅したりして強引に自分の物にすること、だまして自分の物にしてしまうことなども全て盗みになります。
不邪淫戒
分かり易く言えば不倫です、人の夫や妻と通じることで、盗みと嘘も繰り返すことになります。
仏教では出家者は結婚しません、煩悩を消滅していくのに障害になるからです。
我が国の僧侶は資格を取る時だけは戒律を守り、規律正しい生活を送りますが、資格を取ってしまえば破戒の生活を送っている人が多いのは何故でしょうか。
日本の僧侶が結婚して肉魚を食べるのは純粋な仏教では無いからで、道教や儒教、神道などの様々な要素が入っています。
そして現実には結婚して子供に跡を継いでもらわないと寺院が維持できなくなるという深刻な状況があるのです。
しかし本来でしたら仏教には戒律がありますので、それを常に意識した生活をする必要があるのです。
不妄語戒
「嘘つきは泥棒のはじまり」とはよく言われたものですが、はじめは小さな嘘をついていた人が、それに慣れてしまった結果として泥棒になってしまったという諺です。
嘘をついて罪悪感があれば、繰り返すことはありませんが、同じ嘘ばかり何度も繰り返しますと、罪悪感というものが無くなってしまいます。
他人の大切な物を壊してしまった時に、それを認めなかったり、物や他人のせいにしたりすることが嘘でありますが、世の中には人を騙してお金を得る商売も多く、粗悪品を高級品だと偽って販売したり、電話でのオレオレ詐欺、ネズミ講などの嘘の商売で溢れています。
不飲酒戒
お酒は有史以前から飲まれていたようで、世界中に多種多様のお酒があって、私達の生活に欠かせないものになっていて「酒は百薬の長」とも言われ健康の秘訣にもなるものですが、仏教では何故ダメなのでしょうか。
それは度が過ぎれば気持ちが大きくなったり、罪悪感が無くなったり、正しい判断が出来なくなったりするからであり、何よりも真実を見る眼が曇ってしまうことを避けるからです。
確かにお酒というものは羽目を外して人に迷惑をかけてしまったり喧嘩や争いの原因になることが多いのです。
お酒が止められない僧侶はお酒のことを「般若湯」(はんにゃとう)と言って、智慧を授かるための薬であり、お酒ではないと言って飲みますが、戒律には抜け道というものがいくらでもあり、破ったにしてもお決まりの言い訳があるのですが、その言い訳が良いか悪いかという問題では無くて、因果応報は必ず自分に返ってくるということだけは意識する必要があります。
善行とは
善なる行いは善なる結果を生み出すのですから、善行を行うのが仏教徒としての務めです。
善行は在家の方でしたら、五戒の裏返しの行いとなり、それは
- 生き物を慈しむこと(不殺生)
- 人に施すこと(不偸盗)
- パートナーを大切にする、不倫しない(不邪淫)
- 嘘をつかない、真実を述べる(不妄語)
- 酒を飲まない(不飲酒)
これらのことを積極的に行うことが善行です。
不殺生戒で言いますと、生き物を殺さないというだけではなくて、生き物を大切にする、慈しむ、感謝すること、そして自らの命も大切にすることなのです。
不幸が続く時
病気や怪我、事故、災害や災難などは突然やってくるもので、通り過ぎてやっと落ち着いたかと思ったらまたやって来て、神様何とかしてくださいと願った所で、人によっては不幸が次々と続いてしまうことがあり、あまりに続いてしまいますと、これには何か原因があるのではないかと考えるものです。
不幸の連鎖が止まらない
仏教では因果応報と言って、全ての結果には原因があり、良い行いは良い結果に繋がり、悪い行いは悪い結果に繋がることを説き、自分の行いの結果は自分が受ける、自業自得が大原則なのです。
先祖の行いが悪かったから今不幸が起こるということは無いのですが、強い恨みや妬み、憎しみなどの感情がいつまでも残ったり、引き継いだりしてそういった感情に支配されて物事がうまくいかなくなり、結果として不幸に繋がるということはあるのです。
人には生まれ合わせというものがあり、親子の繋がりというものは切っても切れないもので、親が起こした失敗と同じ失敗を子がしてしまい、例えば親が離婚していたら子も離婚、親が自殺していれば子も自殺といった不幸の連鎖を引き起こしやすく、それを止める方法が中々見つからないのです。
不幸の連鎖を止める
原因と結果と言う意味では真の原因は神のみぞ知るのですが、今の自分が少なくとも良い方向に向かっているのか、或いは悪い方向に向かっているのかは正しく知る必要があります、不幸の連鎖だけは今すぐに止めなければいけません。
正しく知る方法は高い所から今の自分を見てみるのです、もし自分が悪い方向に向かっているのなら、良い方向に向き直すことです、良い方向とは明るい方向です、それすらも見えていないから一つの不幸が次の不幸を呼んでしまうのです。
インチキな占い師に引っ掛かったり、変な拝み屋に騙されたりするのも完全に不幸の連鎖で起こることです、時間とお金の無駄遣いです。
毘沙門天信仰で直していくことが出来ます、先祖供養が有効なこともあります、お焚き上げ供養が有効なこともあります、お困りのことがございましたら、いつでもお気軽にご相談くださいませ。
騙されることも因果応報
不幸の連鎖の原因は見えないものだけに、そういった霊的なものを見ることが出来ると言う人に頼りがちで、その時に言われることとして
- あなたの過去世で重大な罪を犯している
- 動物の霊が憑いている
- 浮遊霊、地縛霊が憑いている
- 誰かの恨みを買っている
- 呪いの手法を掛けられている
- 先祖の祀り方が悪い
などのことを言われますが、ここで気を付けなければいけない事は、霊視が出来ると言う人は、その人が見えている霊と同じ世界に通じていて、その影響を強く受けているということです。
地獄の世界に通じている人は地獄の世界のことしか言いませんので、その人の魂のレベルが地獄であるということですから、結構リアルなことを言われてびっくりすることもありますが、そういう人に頼れば頼るほど知らない内に堕ちていくことになります。
不幸の連鎖を止めるのは自分
不幸の連鎖を止めるのは他人でも宗教者でもなく自分です。
自分の力ではどうにもならないことも世の中にはありますが、他人や神仏に頼んでおいて、自分の努力が無ければ何も変わらないか、悪くなるだけです。
最終的に不幸の連鎖を止めるのは自分だということを自覚することから始めるのです。
今まで誰もやろうとしなかったのだから、自分がやらなければ誰もしないのだから、最後のお片付けのチャンスを折角与えてもらったのだから、自分が何としてでも止める、という心掛けで臨んだら、必ず希望の光が見えてきます。
因果応報の真意
不倫をしたからと言って罰が当たらないのだから、人の物を盗んでも何も起こらないのだから、因果応報なんて無いという事もたくさん居ます。
さんざん悪いことをしても悠々自適で豪華な生活をして楽しんでいる人がたくさんいるではないかとも思います。
因果応報とは私達が考えるように単純なものではなくて、実際にはもっと複雑なものであり、一つの行為の結果に対して一つの結果があるとは限らないのです。
因果応報は宇宙の真理
しかしながら因果応報が仏教の大原則として存在するのは、宇宙の大原則だからであり、宇宙の作用がそうなっているから、としか言いようがないからであり、真理と言うものは何時の時代であっても変わらずにあり続けるのです。
私達の行為の原因と結果は宇宙の原則に動かされていると言った方が正しいのかもしれません。
仏教は釈迦が体得した宇宙の真理を説いているだけなのです。