村八分とは
村八分(むらはちぶ)とは村の掟に従わない者に対して村全体が申し合わせてその者と絶交し、孤立させて困らせること。
村八分の由来
村八分は村の掟に従わない者に対して行われる絶交の手段ですが、十の内八分は交流を断つけれど二分だけは協力するというもので、その二分とは葬式の手伝いと火事の消火のことです。
葬式に関しては人が死ぬことによって放置されていたり伝染病が広がっては困ること、そして火事に関しては火が周囲に広がったら困るという理由で手伝うのです。
残りの八分は成人式の出席や祝い、結婚式の出席や祝い、出産の手伝いや祝い、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要の出席、旅行の出席であると言われています。
「はちぶされる」という言葉が江戸時代の文献に出ていることから江戸時代以降の村の仕組みと考えられますが、実際には入会地(いりあいち)の使用が禁止されていました。
入会地とは
入会地とは村の共有地であり、村八分にされた者は入会地への立ち入りが禁止されました。
入会地は共有林であることが多く、水源であったり、山菜などの食料の調達や煮炊きするための薪の調達などの生活に直結する事柄での立ち入りや使用が禁止されてしまうと毎日の生活が出来なくなってしまいます。
屋根の茅を取って来ることも禁止され、葺き替えの手伝いもなくなります。
実質的には餓死するか、村から出ていくかの方法しかなくなるのです。
村の秩序を保つため
村八分は村としての共同生活の秩序を保つためとしての仕組みであり、秩序を乱す者、守らない者に対しての見せしめ行為としての懲罰として古くから存在してきた共同体の仕組みです。
村としての集団の安全を確保し、安定した生活をしていくためには一致団結して協力し合うことが求められていたのです。
村の掟に従うこと
村八分になるかどうかの基準は村の掟であり、集落の長が決めることですから、時には集落の長の個人的な利害や人間関係で決まることがあり、正しくないことであっても従わなければいけないという理不尽なことが起こり得るのです。
気に入らない人を村八分に陥れて見せしめとして仲間外れにするということも起こります。
近年になっても村八分の風習は続き、1952年に静岡県富士郡上野村で起きた参議院補欠選挙での村ぐるみでの不正を新聞社に告発した女子高生の一家に対して村ぐるみで村八分にした事件は静岡県上野村村八分事件として歴史に残されています。
Google八分とは
Google八分とはインターネットの検索エンジンであるGoogleが、検索規定に反するサイトを人為的に検索結果から排除することです。
インターネットの検索結果は公共的なものですが、使う検索エンジンによって検索結果が違うのは当然のことですが、他の検索エンジン同様にGoogleは民間の検索エンジンとして独自の判断で検索結果を変える権限を持っているのです。
Google八分を受ける理由としては不正な手段を使って検索結果を欺くような行為をしたような場合としての措置であり、利用者に対して公平な結果を表示するための手段であるとされます。
最近ではインターネット上での誹謗中傷や個人攻撃、サイト情報の無断転載などについても申告する窓口があり、やむを得ず検索結果を操作することもあります。
ホームページを持つ者にとって、検索結果が少しでも良い位置に表示されることは仕事の業績や売り上げに多大なる影響を及ぼすことから、インターネットの検索エンジン対策はSEOと言って誰もが対策していることですが、時には不正な手段を使って検索結果の上位表示されているサイトが存在します。
我が国での検索エンジンは実質Googleが独占している状態なので、Googleの方向性は常に注視されるところですが、AIを使って神としての立場を築こうとしている意図を感じますが、使う側がくれぐれもGoogle様といった表現で媚びることのないようにしたいものです。
学校でも職場でも
村八分という言葉は差別用語として現在は放送禁止用語ですから聞くことがありませんが、現代社会では集団心理と言う意味では村八分同様のことが学校でも職場でもいまだに行われているのです。
- 気に入らない人が居たら、皆でつるんでわざと仲間外れにしていませんか?
- 自分達で作ったルールを守らない人が居るからと仲間外れにしていませんか?
- 仲間はずれにした人をいじめて皆で喜んでいませんか?
- 弱い人を標的にしていじめることを楽しんでいませんか?
- 弱い人がいじめられているのを見て見ぬふりしていませんか?
集団で特定の人間に対して仲間外れにするだけでなく、いじめや暴力などで本人を痛めつけ、更にはいじめや暴力に皆が加わることで集団の結束を高めるようなゆがんだ形で村八分が起きているのです。
仏教ではいじめや暴力は自らの魂を汚す行為として禁止され、他が苦しんでいたらその苦しみを知り除き、楽に変える功徳を積む(抜苦与楽)ことによって、自分も他人も幸せになると説きます。
人の苦しみを喜ぶことは人間の心ではありません、地獄の心です。
人の苦しみを憂い、苦しみを取り除く心は天の心なのです。