病苦とは
病苦とは釈迦が説く人間としての苦しみである四苦八苦の一つで、病気による苦しみのこと。
病気になったら
病気には体の病気と心の病気があって、どちらにしても辛くて苦しいもので、考えたり動いたりすることが苦痛になり、場合によっては何も出来なくなってしまいますので、誰もが早く治したいと思うのです。
しかしながら病気というものは体の中の細胞が病気の要因と戦ってくれている証として熱が出たり痛みがあるのですから、自らの身体が自然に治そうとしている姿だと思えば、感謝の気持ちが自然に湧いてくるものです。
とは言っても病気になったら少しでも早く良くなって欲しいというのが誰しも正直な気持ちです。
四苦について
仏教では私達人間世界は苦しみに満ちた世界で、その苦しみから逃れることが出来ないと説きますが、四苦とは最も根本的な四つの苦しみのことです。
生苦(しょうく)
生苦とは生きていることは苦しみであることです。
生きていれば人から裏切られたり騙されたり、思い通りにならなかったりすることの連続であり、そういった苦しみは生きている限り続きます。
生きていることが苦しみの連続であるからこそ「生まれる」ことも苦しみであると説くのです。
夫婦の間に子供が生まれたら目出度いこととして祝うものですが、釈迦の眼には人間界に生まれたことで苦しみ多き人生が始まったと映るのです。
老苦(ろうく)
老苦とは人間歳を取れば若い時に比べて苦しみが増えることで
- 目が見えなくなってきた
- 耳が聞こえなくなってきた
- 歯が抜けてしまった
- 腰が曲がってきた
- 肩や腰が痛い
- 歩けない
- 動けない
- 食べることが出来ない
などのことで苦痛が増えるばかり、若い時には何でも自分で出来ていたのに、もう何も出来なくなった、それでも天寿を全うするまで生きていくしかないのです。
病苦(びょうく)
病気は誰もが経験するものですが、病気になれば体の痛みや自由が利かないことなどで苦しむことになります。
病気の苦しみは
- 患部が痛い
- 熱がある
- 寒気がする
- 動けない
- 寝ていないといけない
- 自由が利かない
などで、病気になれば健康の有難さが分かります。
死苦(しく)
死苦については死ぬことは最大の苦しみで、死ぬ瞬間の苦しみはもちろんのこと、まだ生きていたいという欲望が断ち切られる苦しみ、愛する人と別れなければいけない苦しみ、死後の世界に向かう不安の苦しみなどがあります。
息が出来なくなる苦しみは大きく、誰でもそうですが、どれだけの時間息を止めることが出来るか試してみても、だんだんと苦しくなってきて、3分も持たずに次の息をしてしまいます。
息が止まることは大いに苦しいことなのですが、臨終を迎える人は失神してしまい苦しみを感じることなく死後の世界に向かいます。
人は必ず死んで肉体は焼かれて骨になり、遺品は捨てられたりお金に変えられてしまいます。
遺品整理の時に家族に見られてはいけない物があったら早めに処分するかお焚き上げに出しましょう。
後継者が居ないなどでご先祖様のお墓が無縁になることが分かっていたら、墓じまいして樹木葬や散骨供養などで綺麗にしておきましょう。
病苦を克服するには
病気にならなければ病苦を味わうことはありませんが、長年病気で苦しんでいるような方にとっては、病気の苦しみよりもむしろ生きていることの苦しみの方が大きいのかもしれません。
「何時までも病気で苦しんでいるのなら生きていても無駄だ」のような生きていること自体が苦しみになることです。
病気は「気」の「病」と書かれることから「気」が無くなってしまえば治る力さえも失くしてしまいます。
「もう治らない」と諦めている人は病気が悪化するだけですが、「必ず治る」と信じている人には奇跡が起こることも有るのです。
医者と薬の力を充分に活用し、尚且つ「治る」という希望を持ち続けることは病気を克服するための基本であり、それに神仏や先祖の眼に見えない力が加わることによって初めて治っていくための材料が揃うのです。
病気は時には諦めないといけない時もありますが、たとえ病気であっても生きていることに変わりは無いのですから、自分がこの世に生まれてきた理由を知るためにも最後まで諦めずに生きることが修行であり、仏教では少しでも悩んだり苦しんだりしている時間があるのなら、修行して魂を磨きなさいと説くのです。
そういう意味では病気は自分の身体を知り、克服することを知るために天から与えられた試練でもあるのですから、関わって下さる方には感謝の気持ちを表し、何か一つでも成果として得られるものがあれば、一つ成長することが出来るのです。