経典とは

写経の歴史

経典(きょうてん)とは釈迦の説いた教えを書物に書き記した書物のこと。

釈迦の教え

阿難尊者

釈迦の説いた仏法は在世当時には製本の技術が普及していなかったことや、教えを書くということ自体が尊い教えを損なうということで、口伝えに弟子から弟子へと伝えられていきました。

現代に伝わる経典の冒頭部分が「是(かく)の如く我れ聞く」から始まっているのは、弟子が釈迦から「そのように聞きました」ということで聞いた内容が書かれているのです。

如是我聞は「にょぜがもん」「じょしがぶん」などと読まれますが、仏典の最初の部分に必ずと言っていいほど登場する言葉です。

「我は仏陀からこのように聞いた」という意味なのですが、「我」のほとんどが多聞第一と言われる弟子の「阿難」であるとされます。

口伝と記憶力

虚空蔵求聞持法

釈迦の弟子に対して説かれた説法は弟子達の優れた記憶力によって記憶されたのですが、仏教には虚空蔵求聞持法のような記憶力を増強する修行法があるのは、膨大なる説法を間違えることなく覚えることが重要なことだったからです。

このような中で多聞第一の阿難のような弟子が活躍したのです。

今の私達が釈迦の弟子と同じように出来るかと言われたら、分からないことは何でもスマホに聞き、聞いてもすぐに忘れてしまうような私達には到底出来ないことでしょう。

第一回結集

第一回結集のイラスト

釈迦の入滅後しばらく経ってから釈迦の説いた教えを確認し合う集まりである第一回結集には釈迦の教えをよく聞いていたということで阿難の参加が望まれていましたが、阿難は結集に参加する資格としての阿羅漢果(あらかんか)にまだ達していなかったために、釈迦の後継者の摩訶迦葉(まかかしょう)は阿難の参加を認めませんでした。

釈迦の説いた教えを正確に記録するためにはある程度のレベルに達している人でないといけないという判断があったからです。

そのため阿難は摩訶迦葉のすすめで瞑想修行に専念し、疲れのために寝具に倒れ込んだ拍子に悟りを得たのが第一回結集の朝だったと言われています。

経典の誕生

玄奘三蔵のイラスト

仏法を学ぶ者は膨大な量の釈迦の説法の内容を聞いて記憶し、また次に伝えていくということを繰り返してきたのですが、時代が下がって紙に書き残すことが普及すると共に膨大な量の経典が編纂されるようになり、更にはその経典を書き写す写経出家者の大切な修行でもあったのです。

経典が出来たことによって、仏法は様々な国の言葉に翻訳されて世界中に広がっていったのです。

まだ航空機や自動車の無かった時代に、多くの荷物を背負いながら徒歩で命がけの旅をした結果として私達は経典を目にすることが出来るのですから、今の時代に生まれた私達はとても幸せなことなのです。

小乗と大乗経典

法華経のイラスト

紀元前3世紀頃になってパーリ語で書かれた初期の経典が「経集(けいしゅう)」「法句経(ほっくきょう)」「長老偈(ちょうろうげ)」「阿含経(あごんきょう)」「ジャータカ」でこれらを小乗経典と言います。

更に1世紀頃になって大乗仏教が成立するとサンスクリット語で書かれた「大般若経」や「法華経」などが編纂され、中国に渡って漢訳されたものが我が国にも伝わったのです。

経典、経本の持ち方

経典を持った僧侶のイラスト

勤行の時などに経本を持って行う場合には、まず合掌して手を塗香で浄めた上で経本をそっと持ち上げて、両方の手を揃えて下から支えるようにして、胸の位置で持つようにします。

釈迦の説いた法とそれを伝える命がけの努力をした多くの方々の努力があってようやく触れることの出来る仏法なのですから、感謝の気持ちを込めて有難く拝読しましょう。