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執着とは
執着とは一つのことに心をとらわれてしまい、そこから離れられなくなった状態のことで、仏教の修行の邪魔になります。
「こだわる」は気にしなくてもよいものが気に掛かり、気持ちが捉われること。
執着心について
執着心とは何かを失うことを恐れるあまり、しがみついている心のことで「執着心が強い人」のような言い方では、物や人に対して必死にしがみついている有様のことを言います。
私達は普通では中々手に入れることが出来ないものや、苦労してやっと手に入れたものに関しては手放したくない気持ちが強く、それを失いたくないがために必死に守ろうとするものです。
執着心の有無は人によって違い、執着心を持つ人も居れば持たない人も居ることから、執着心とは心の作用であることが分かります。
お金に執着
「あの人のお金に対する執着は異常だ」などと言われている人は意外と多く、執着の中でもお金に対する執着は誰もが少なからずあるものです。
何故執着するかと言えば、お金を得るのに苦労すること、そして苦労して得たお金によって好きな物が買えるという満足感が得られますがそれも束の間のことで、使えばまた得るための苦労が必要で、更には得たお金を減らさないように、人に盗られないように守り続けるという苦労が増えるばかりです。
得るのに苦労するからこそ、得られた物に対しては手放したく無いと執着するのは人として当然のことで、特にお金に関しては持っていればいるほど、減らさないように、人に盗られないように、しがみついて守る姿は「守銭奴」(しゅせんど)とも言われ、お金をため込むことに対して異常な執着を持った人のことなのです。
お金に執着するあまり、人間関係をも壊してしまうことがあります。
親の遺産相続で兄弟同士がお金や財産の分与のことで喧嘩になり、最後には醜い結末を迎えることも多くあり、親子兄弟が喧嘩別れでバラバラになってしまい、お金をむしり取って供養もしないような家はやがて必ず不幸になるか滅びるかの運命なのです。
お金は人を幸せにもするし、不幸にもしますので、特に働くことなく得られる大量のお金は、余程心掛けて使わないと幸せになることは出来ません。
お金に異常な執着を見せる人は餓鬼と同じです。
餓鬼は常に空腹で食べ物を探し回っていて、人が食べ物を落とすようなことがあれば餓鬼同士が一斉に群がり、奪い合いをしますが、やっとの思いで得られた食べ物を口に入れようとすると、火が着いて燃えてしまうという結末が待っているのですが、それでも空腹に耐えることが出来ずに次の食べ物を探し続けるのです。
別れた人に対する執着
お金はどちらかと言えば物に対する執着ですが、人に対する執着もあります。
騙されたと分かっていても、別れた人のことが忘れられずに心の執着を切り離すことが出来ない人は、過去にこだわるあまり、一歩も前に踏み出せないものです。
別れてしまった人であっても心を奪われ続けているのは、その思い出を打ち消すだけの新しいことが目の前に現れないからであり、深く傷付いた心が更に深く傷つくことを恐れているのです。
更にはもう一度戻りたいという淡い期待があるからこそ、執着心として心を支配するのです。
こだわりは大切ですか?
執着に近い言葉としてのこだわりについても検証してみます。
近年のテレビ番組ではいろんなことに対する「こだわり」がクローズアップされ、特に食に対するこだわりの特集が多いことを感じますが、食は老若男女共通の関心事であり、生きている限り食べると言うことを続けるのですから、少しでも目新しい物があれば時にはブームにさえなるのです。
材料に対するこだわり、味に対するこだわり、見栄えに対するこだわりなどは作った人の執念さえも感じることがあり、執着と言うよりは、情熱といった前向きな姿勢のことを表しています。
一方で「あの人の服装に対するこだわりは異常だ」などのような言い方では、執着の仕方が尋常ではないということです。
こだわりというものは、良いこだわりは人生を豊かにし、人を幸せにしますが、良くないこだわりは人を不快にしたり不幸にすることもあります。
出来る事なら人生を豊かにするようなこだわりであって欲しいものです。
執着を捨てる
釈迦の悟りはこの世の物に対する一切の執着を捨てることで得られたことから、執着は捨てなさいと説きますが、執着を捨てることは、簡単なようで実は難しいことなのです。
執着は欲望である
執着には人や物に対する執着があって、いずれも欲望であることに変わりなく、釈迦は悟りの邪魔になるものは捨てなさいと説くのですが、私達凡人は執着や欲望があるからこそ楽しいのであって、生き甲斐にもなっているのですから、簡単には捨てることが出来ないのです。
私達凡人は誰もが悟りを目指している訳ではありませんので、一切の欲望を捨てる必要はないのですが、少なくとも人を傷つけたり不幸にするような執着はやめるべきであります。
たとえばお金は誰にとっても必要なものですが、親の遺産が入ってくるからと兄弟で喧嘩したり、奪い合ったりすることはとても醜いことであり、せっかく親の残してくれた財産も、人を不幸にすることになってしまいます。
執着の良い使い方
私達は人間世界に生きる者のつとめとして、幸せになることが大きな目標です。
執着やこだわりというものは、使い方が良ければ幸せになることが出来ますし、使い方が悪ければ不幸にもなる両刃の剣なのですから、可能な限り良い使い方をすることが大切です。
正しいことに対するこだわりはとても良いことで、功徳になりますが、正しいことばかりしていますと案外、人と対立することになりやすいので、人と対立することなく自分だけでも正しい行いをして、他人の悪行を気にしないことが大切です。
正しいことは自分一人だけですれば良いことで、人が何と思おうとも関係ないのです。
天部のこだわり
毘沙門天の居られる天部では自分のことにこだわることなく、常に自分のことは後回し、妃の吉祥天、子の善膩師童子の幸せばかり願っているのです。
まさに利他行とはこのことで、人間の世界では自分のことが主体になって物事を考えますが、霊的なレベルの高い天界では他の幸せが自らの幸せになるのですから、他が幸せにならないと自分も幸せになることは決してないのです。
家族の関係が利他行を最も実践しやすい環境です。
家族の中で実践してみましょう。
執着を捨てれば楽になる
執着というものは本来形の無いもので、こだわりやプライドと同様に自分の心の中で自分が勝手に作り出したものですから、年齢と共に変わっていったり、人との出会いで変わっていくものであり、自分が死んでしまえば無くなってしまうようなものですから、この広い宇宙の中では何の意味もないものなのです。
執着はある意味人生を楽しくしてくれますが、もし苦しみの原因になっているようでしたら、思い切って捨ててしまえば、随分と楽になるものです。
自分の子供に対して良い大学に行きなさいと無理して勧めてやっとの思いで合格した大学も、一年も経たないうちに「自分に合わないから」という理由で辞めてしまったとしたら、苦労しながらも支援を続けた親の立場としては地獄の底に突き落とされるようなもので、これまでの努力が水の泡、何だったのだろうかと思うばかりです。
しかしそのような過去がありながらも10年後、20年後の結果として幸せな家庭を持ち、幸せな人生を歩んでいたのなら、それで良しとするべきです。
世の中には親が子をさらに追い詰めて、挙句の果てに自害してしまうようなことが多く、そうなってしまってから悔やんでも遅すぎるのです。
生きているだけでも有難い事、ましてや可愛い孫を連れて来て「おじいちゃん、おばあちゃん」と言ってくれたら、それ以上の幸せは無いのです。
結果として幸せになれば、どんな形でもそれで良いのです。
執着をいとも簡単に捨てることが出来る人は良い人生を歩むことが出来るのです。