天台宗とは
天台宗は中国発祥の大乗仏教であり、法華経を根本経典とし、我が国では平安時代に入唐した最澄によってもたらされました。
中国の天台宗の歴史
中国の天台宗は開祖を慧文(えもん)禅師、第二祖を慧思(えし)禅師であり、第三祖である智顗(538-597)によって天台宗として確立されました。
智顗は釈迦の教えを記した経典を説いた時期に応じて五つの時と八つの教えに分けて「五時八教」とし、釈迦が説いた教えを時間と場所に応じて分類した「五時」を
- 華厳時…「華厳経」ガヤー城近郊…ナイランジャナー河の菩提樹の下などで21日間、7処8会
- 阿含時…「阿含経」「法句経」など…バナラシーのの鹿野苑で12年間
- 方等時…「大方等大集経」「阿弥陀経」「観無量寿経」などの権大乗経…祇園精舎、竹林精舎等で16年間
- 般若時…「大般若経」「金剛般若経」「般若心経」など…霊鷲山など、4処16会で14年間
- 法華涅槃時…「法華三部経」「涅槃経」…霊鷲山で8年間法華三部経、クシナガラの沙羅双樹の下で涅槃経
としましたが、第五時の「法華三部経」に最も重きを置いて、止観によって仏になると説いたのです。
やがてその法流は脈々と受け継がれ、第六祖の湛然(711-782)、その門下の道邃と行満が最澄に伝えた天台宗が我が国で花開くのです。
我が国の天台宗の歴史
中国で熟成されていた天台宗は我が国では最澄によって更に発展していきます。
最澄と天台宗
近江国で生まれた最澄(766-822)は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)と言い、幼少時より非凡な才能を発揮し、7歳の時に仏門に入り多くの経典を読誦して仏道を研鑽し、延暦4年(785)には東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となり、比叡山に籠って修行三昧の日々を送ります。
延暦23年(804)最澄38歳の時に留学僧として唐に渡って天台山に登り天台宗第六祖の湛然門下の道邃と行満より天台教学の教えを受けて、更には真言密教、禅、戒律も学んで多くの経典を携えて帰国後に比叡山を拠点として円(天台)、密、禅、戒の四宗を融合した天台宗が成立しました。
延暦25年正月3日には朝廷に念分度者の申請をして許可を得、正式に天台宗が認められました。
密教と天台宗
しかし時の天皇である桓武天皇のために密教の祈祷を行った事や、朝廷が密教に興味を示したことなどから密教の充実が重要な課題になったのです。
この直後に空海が真言密教をもたらしたことにより、空海がもたらした密教を「東密」最澄がもたらした密教を「台密」と呼ばれるようになりました。
空海がもたらした密教が日本の仏教の中心的な存在を担う中で、最澄没後に天台宗第四祖の円仁と第六祖の円珍の努力によって密教の理論が整えられたが、教義の解釈を巡って対立するようになり、円珍の没後には円珍派の僧侶達は山を下りて園城寺(三井寺)に拠点を移すことになりました。
その結果天台宗は山門派(円仁派)と寺門派(円珍派)に分かれることになります。
天台宗と浄土教
そういった混乱の後に現れた良源は天台宗に浄土教を取り入れて比叡山を復興させ、その流れは弟子の源信によって大成されます。
平安時代以降、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の開祖達が比叡山で学んだことから、天台宗は日本仏教の発展に貢献したことが分かります。
焼き討ち
16世紀になって比叡山は織田信長の焼き討ちに遭って衰退しましたが、江戸時代に天海が立て直しを図って現代に至ります。
東密と台密の違い
弘法大師空海のもたらした東密は大日如来を本尊とした教義であるのに対し、伝教大師最澄のもたらした台密は法華経を中心とした「法華一乗」の立場から、法華経の本尊を釈迦如来としているのです。
空海にとっては密教が全てであるのに対して、最澄にとっては仏教の中の一部であるという解釈であり、この溝は埋まることはありませんでした。
時の朝廷は加持祈祷などで力を発揮する密教を重んじたことから、密教の正統派である空海が重んじられたのに対して、密教にも年分度者が付いたことに焦りを感じた最澄は空海に密教の教えを乞うのですが、一宗派の長として無理なことであり、最後まで融合することはありませんでした。