通夜とは
通夜とは死者の傍に居て思い出話などをする夜を徹した儀式のこと。
仏教的意味
釈迦の入滅の正確な時期は今でも分かっていませんが、一説によれば紀元前383年2月15日の満月の夜から7日間に亘って、昼夜を分かたず弟子達が釈迦の遺体を守りながら釈迦の教えを確認し合ったのが通夜の始まりだとされています。
夜を徹して思い出を語ることは大夜(たいや)という習慣にもつながっているとされます。
釈迦の場合には悟りを得た方であるために、成仏を願う、或いは亡き人の供養のための儀式ではありませんが、偉大なる実績を残した釈迦の入滅を嘆き悲しみ、最後のお別れをしようと多くの人が昼夜に関係なく集まってきたのではないかと思われます。
古来よりの通夜の意義
我が国では古来より、亡き人の身体に悪霊や悪鬼が憑りついたり、亡き人の魂が荒れ狂って悪さをすることがあると言われていました。
そのために魂が暴れることが無いようにと亡き人の身体を寝かせた布団の上に刀やハサミ、鏡などを魔除けとして置き、夜になれば魔物が憑りつきやすくなるので死者の魔除けとしてロウソクと線香を絶やすことなく焚き続け、夜を徹して亡き人の思い出話をすることで亡き人を守るという習慣になったのです。
死者の世界はこの世の世界と逆の世界であるとも言われ、この世が昼の時には死者の国は夜で、この世が夜の時には死者の国は昼であるとされることから、この世の夜の時に死者の国は明るいので、死者が迷わぬようにと見守っているとも言われています。
通夜の簡略化
都会では完全に経済優先主義で、自分達の生活を豊かにするために仕事と生活が何よりも優先されますので、冠婚葬祭の時間がどんどん削られています。
冠婚葬祭の中でも特に葬儀は、臨終から関わっている人なら既に数週間という単位で時間を費やしており、通夜、葬儀、告別式、更に仏式なら初七日、二七日…四十九日と法事が続き、遠方の場合には宿泊も必要となり、その度に仕事を休んでいたら会社に迷惑が掛かることから、出来る事なら簡単にして欲しいという要望が当然の如くあるのです。
場合によっては1年の内に葬儀が何回も続くようなこともあり、そうなってしまったら金銭的な負担もですが、時間的な負担が重くのしかかってくるのです。
近年では冠婚葬祭の意義が薄れて、本来の目的が失われつつあります。
葬儀は故人を偲んであの世に送り届けるという目的が失われ、葬儀社主催の単なるセレモニーになりつつあります。
僧侶などは経を読む人形でも構わないとさえ思われています。
僧侶は葬儀社の言いなりになってしまっています。
1~3時間で終わる「半通夜」などの訳の分からないことをするぐらいなら、しない方がましです。
通夜の準備
近年では、死の当日は「仮通夜」と称して家族だけで死者を見守り、葬儀・告別式の前日を「本通夜」とすることが増えているようです。
枕経は死者の枕元で死者を導くために僧侶が読経することで、亡くなって間もなく或いは通夜の前に死者の枕元で行います。
枕経の習慣がある場合には僧侶に来てもらい、枕経をあげてもらいましょう。
その際には枕元に経机を置いて線香、ロウソク、そして「末期の水」を含ませるための白い御椀と棒に脱脂綿が付いたものを準備しておきます。
脱脂綿ではなくて樒(しきみ)の葉を使うこともあります。
死者に手向けるための箸を突き立てた一膳飯と清水を入れたコップも準備します。
枕団子と言って死者の枕元に供えるための団子を準備することもあります。
枕経の時に戒名を付けてもらい、白木の位牌に書いてもらいますので、筆と硯も準備しておきます。
白木の位牌は葬儀社が準備し、筆と硯も共に準備してくれます。
本来の意義を忘れない事
ここで大切な事は本来の意義を忘れないことです。
亡き人をお送りするということは一生の中でたった一度だけの事で、その方にお世話になったのなら、御礼の気持ちとして最後には出来るだけのことをして差し上げることです。
通夜の本来の目的は亡き人があの世の世界に行くのに、迷わぬように傍に付いていて差し上げる事です。
亡き人は長年付き合った自分の身体を捨てて、愛する人や家族からも離れて旅立っていくのですから、果てしなく大きな旅に出かけるのを見送って差し上げるのです。
人生も旅ですが、私達の魂も旅をしています。
自分の魂が大宇宙の中で多くの魂と共に果てしない旅をしていることを感じたら、他の魂や神仏との出会いが如何に有難い事なのかに気付くはずで御座います。
自分の生活ばかり優先しているこの世の人生はあっという間に終わってしまいますが、魂の旅は永遠に近いのです。