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プライドとは
プライドとは自分の才能や業績に自信を持っている人が他人よりも優れていることを正当に評価して欲しい気持ちとその品位を保つ努力のこと。
プライドと向上心
この世は全て競争社会で、子供の頃から学校では点数を付けられて人よりも高いか低いかを比べられ、点数が低ければ少しでも高くなるように、そして点数が高い人は更に上を目指すことが求められ、その競争の結果は将来の就職やその後の昇進にまで繋がっているのです。
一流大学を卒業して一流企業に就職することを目指す人達の根底にあるものはプライドであり、決して人には負けないような自信を持つために努力し続けているのです。
人よりも優れていることは素晴らしいことであり、たとえ一つだけであっても人よりも優れている点があるということで世の中で認められて活躍できるのなら、プライドは向上心であり、世の中を発展させる原動力でもあります。
私達日本人はかつて敗戦というどん底から立ち上がって努力してきた民族ですが、他の国には負けない、必ず豊かになるという向上心があったからこそ現代のように発展したのです。
そういう意味ではプライドは決して悪いものではないのです。
阿修羅のプライド
阿修羅は元々天界に居たことから頭脳明晰で大変に優れた文明を持ち、私達人間よりもはるかに優れているのですけれど、何故かしら私達人間界よりも下に位置付けられていますが、その原因は阿修羅の怒りとプライドなのです。
阿修羅と帝釈天の戦いの話は有名です。
ある日、天界の住人の帝釈天は同じ天界に住む阿修羅の娘シャチー(舎脂)に一目ぼれして連れ去ったことから、阿修羅は激怒して戦いを挑みますが負けてしまいます。
その後も阿修羅は帝釈天に対して数多くの戦いを挑むも負け続け、最後には戦いの鬼となってしまったことから天界から追放されて、人間界よりも低い阿修羅界の住人となり、阿修羅界を支配するようになったのです。
阿修羅が天界から追放された原因は阿修羅の怒りとプライドです。
自分の娘を連れ去られた阿修羅は怒りに燃え続け、更にはそのプライドから絶対に認めない、許さないという復讐心になってしまったのです。
プライドというものはあまりにも強すぎると、誰かに傷付けられた時に絶対に許さないという気持ちから復讐心になって破滅の道を歩むことがあります。
阿修羅がそのよい例なのです。
評価としてのプライド
誰だって人から良く思われたい、良い評価でありたいというのは同じことで、人からどう思われているかということは気になるものです。
評価の高い人は多くの人から尊敬され、名誉も地位も手に入れます。
もちろんそれなりの努力はしているのでしょうけれど、プライドがある人はある意味輝いているのです。
しかしながら実際の所はほとんどの人が、綺麗ごとだけで築いた地位ではなく、人を騙したり蹴落としたり、上司に媚びたりして得たプライドなので、メッキはすぐに剥がれてしまいます。
本当の意味での評価というものは、作られたものでも人に見せるものでもありません。
その人に対する評価は自然と付いてくるものですから、本来は自慢するものでもなくて、気にするようなものでもありません。
最近ではビジネス情報や店舗情報サイトでは利用者が点数を付けるシステムが多いので、たとえは飲食店なら低い点数ばかりなら「まずい」「汚い」「サービスが悪い」ということになりますし、高い点数ばかりが付いていたら「うまい」「綺麗」「サービスが良い」などの印象になりますので、他人の評価というものは結構大事だったりするのです。
謝らないこともプライド
夫婦喧嘩でよくあることですが、お互いどちらも自分が正しいと思っていますので絶対に謝りませんが、これは誤れば自分の非を認めるということだからです。
こういう場合にはどちらも謝まることなくただ気分が悪い時間が過ぎるだけで、最悪離婚にまで発展してしまいます。
しかし謝った方が早く仲良くなれることが分かっていても謝ることによって「ほら、あなたが悪い」「今度から気を付けなさい」などと言われたらもう完敗です。
しかし負けたところで何か損したかといえば、何も損していないのであって、ただプライドがちょっと傷ついたというだけのことであって。元々プライドなんて人間には不要のものなのです。
ですから最初から喧嘩しないのはもちろんですが、喧嘩しても「悪かったごめんなさい」と言ってしまえば何事もうまくいくことに早く気が付かなければいけません。
プライドを捨てよう
プライドは仏教の世界では欲望であり、もっと欲しいもの、そしてプライドを守るためには、知らないうちに人を傷つけていたりするのです。
拘らないこと
いきなり「プライドを捨てろ」と言われても簡単なことではありません。
そんなストレートな方法ではなくてもっとやりやすい方法がありますねそれは「拘らないこと」です。
人との成績の上下や評価、順番などを気にするのではなくて、「正しいと思ったこと」をすれば良いのです。
人との比較の数字を追ってばかりいますといつの間にか心が数字に支配されるようになっていて、「落ちてはいけない」「上がらないといけない」ということに完全に束縛されるのです。
こういう場合には拘ることを止めてみて自分が「正しいと思ったこと」だけに専念するのです。
もちろん正しいかどうかは常に検討する必要はあります。
相すれば数字の束縛から解放されて心が楽になり、「今しなければいけないこと」に専念できるのです。
今しなければいけないこと
仏教で一番大切な問いかけは「今何をするべきか」ということです。
もしあなたの命が明日で終わりなら今日なにをするべきでしょうか。
おいしいものでも食べますか、大切な人と共に過ごしますか、それともやり残したことをしますか。
仏教では常に魂を向上させなさいと説き、プライドなどは捨てなさいと説き、それが今しなければいけないことなのです。
毘沙門天とプライド
私達はいきなり釈迦如来の世界の方々と同じことは出来ませんし、今現在私達の周囲にそのような浄土の環境もありません。
私達が人間世界で暮らしている限り、いくら自分一人だけがプライドを捨てたところでライバルが喜ぶだけの話ですから綺麗ごとばかり言っている訳にはいきません。
その点毘沙門天は私達人間世界に近い所で良い智慧を授けてくれるのですから、大変に有難いのです。
人と比較したり順位を争うことは人間社会では仕方のないことですが、毘沙門天信仰は「負けない」信仰です。
勝たなくてもいいですから、負けなければ良いのです。
「負けない」ことは「人に対して負けない」ことではなくて「自分に負けない」ことなのです。
負けないこととは
- 相手に勝っても自慢しない-勝ってもうぬぼれないこと
- 相手に勝っても相手を悪く言わない-謙虚な気持ちでいること
- 相手に負けても悔しがらない-すぐに忘れること
- 相手に負けたら素直に認める-次のことに頭を切り替えること
ですから、要するに勝ち負けで喜んだり悲しんだりしている場合ではないですよ、うぬぼれの無い謙虚な気持ちでいなさいよ、ということなのです。
これはプライドを超えたところから見える「ゆとり」なのかもしれません。
毘沙門天は昔から勝負必勝の神として有名ですが、上杉謙信の勝負の話にもあるように、毘沙門天に祈願する時には、決して「相手を滅ぼす勝ち方」を祈願するよりは「困った方を救済するために助けて下さい」という祈願の方が聞き入れてもらえるのです。
そういう意味では毘沙門天は貧者や弱者の味方です。
困っている人を救うための勝負には必ず味方してくれます。
私達はいきなり如来の世界には繋がりにくいものですが、天の世界はすぐ傍にありますので、良いヒントが得られるのです。
あなたも魂の向上を目指してみませんか。