価値観の論理
私達日本人は皆と同じであることに安心感を覚える民族であり、歴史的に見ても特に地方では困難な時代を乗り越えていくためには、皆が同じ価値観を持って生きていくことが生活の智慧とされてきました。
価値観について
私達は学校でも家庭でも成績が優秀で人から好かれ、環境になじみ、与えられた課題を確実にこなしていく人を理想とした社会の中で生活していますが、そういった価値観を皆が同じように持ち、同じ価値観の中で少しでも豊かになろうと皆が努力しているのが我が国の社会の現状です。
そういう社会の中では皆が同じ考え方を持っている、という事が安心で居られるための秘訣なのです。
ここで言うところの「皆が同じ考え方」とは「同じ価値観」であることであり、たとえば学校では良い成績を取り、良い大学に進み、優秀な企業に就職するという価値観ですが、優秀な企業に勤めている人は立派な家に住み高級車を乗り回し、おいしい物を食べて裕福な生活を送っている人が多いことによるもので、誰もが貧乏な生活で今晩の食べる物にも苦労するような生活よりも、何の苦労も無い豊かな生活の方が良いに決まっているという価値観のことです。
こうしてみれば私達の世の中は皆が同じような価値観で動いているのだと気付きます。
塾があって受験戦争があって、同じ価値観の中で順位が付けられるのです。
そしてその価値観は家族の中での子供の教育にまで影響を及ぼしますから、親は子に良い学校に行くためにもっと勉強しなさい、良い点数を取りなさい、友達と遊んではいけません、塾に行きなさいと子供を叱ることばかりしてしまうのです。
価値観の違い
価値観とは物事に対する良い悪いの判断の基準であり、自分にとって価値のある物かそうでない物かを判断する基準のことです。
世の中としての価値観は世論というものであり、どういう考えの人が多いのかは調査され、とくに有名な形では首相や政党の支持率で、世論調査と言う形で公開されていますので、政策に対して世の中の人がどのように感じているのかが分かります。
個人としての価値観は一人一人の考え方や経験によって異なります。
個人としての価値観は人によって違うもので、ブランド物のバッグをとても素晴らしいと思い、高いお金を払って欲しがる人も居れば、安価で機能的なエコバッグで充分という人も居ますので、世の中にはいろんな価値観のある人が居るということになります。
同じ価値観を楽しむ
本来はいろんな価値観のある人の集まりが社会なのですが、同じ価値観を持つ人が集まるようになり、同じ価値観であることを楽しむようになってきます。
同じ価値観を持つ者同士は同じ喜びを共有出来ることから、より親密な関係になることが多く、場合によっては夫婦になったり、一生付き合える良き友になったりするのです。
そういう意味では同じ価値観を持つ者同士は共に楽しみ、人生を豊かにするのです。
経験からくる価値観
私達は経験から学ぶことがたくさんあって、自らの経験によって得られた価値観は、その後の人生に多大な影響を及ぼすものです。
- 日頃から小さな嘘をつく人は信頼できない
- 動物好きの人に悪い人は居ない
などのその人の実際の経験からくる価値観はその人の考え方や行動を決定づけることになります。
たとえば「良い学校を出ないと豊かな生活が出来ない」という価値観がある人は自分の子供に良い学校に行かせようとしますし、「学校なんか行かなくても実力があれば良い」あるいは「たとえ貧乏でも幸せになればそれで良い」という価値観を持っている人なら自分の子供には自由な選択をさせることでしょう。
価値観は本当に必要?
価値観というものは作られたものであり、絶対的な基準は何一つありません。
私達が持っている価値観も全て自分が作り出したものなのです。
自分が作り出した価値観に従って行動している私達は、他人と価値観が違うことによって対立してしまったり、時には争いの原因にもなってしまいます。
そして自分の価値観を押し通すことがプライドになりますので、価値観の違う者同士はお互いに自分は絶対に間違っていない、相手が間違っているという対立が出来上がるのです。
しかし相手と対立してまで、争ってまで押し通そうとする価値観は本当に必要なのでしょうか。
自分の価値観を押し通したことで世の中が良くなったり、誰かが幸せになったりしているのでしょうか。
会社の企画で相手のプライドを傷つけてまで押し通した価値観も、もし自分が居なくて相手の価値観で決まっていても、それはそれで実際は案外うまくいっていたのではないでしょうか。
改めて考え直してみたら、誰もがこだわり続けている価値観と言うものは、何の役にも立たないものであることに気が付くはずです。
少しは何らかの役に立っているものの、決定的に人を幸せにするような永遠不滅の法則からは程遠いものでしよう。
悟りとは価値観を捨てる事
釈迦の悟りは一切の執着を捨てたことで得られましたが、物質的な物と心の中から生じる欲望や怒り、妬みなどのあらゆる執着を捨て去った境地の先に悟りがあったのです。
仏教での出家とは本来「何もかも捨て」てから僧団に入り、自分の持ち物を持つことが許されませんが、その目的は悟りの邪魔になる「執着心」を無くすことなのです。
自分の物を持っていたら、もっと欲しい、まだ欲しいという欲望に捉われてしまいますし、誰にも与えたくない、盗られたくないということに心を奪われてしまいます。
「価値観」も典型的な執着であり、「こうでなくてはいけない」という決まった形があって、「違った形は認めない」ということで他人と対立する原因になります。
そもそも自分にとっては大切な「価値観」であっても執着であり、こだわるべきものではないことが分かります。
天の価値観
毘沙門天の天の世界では決して自分の幸せが優先される世界ではなくて、他の幸せが優先される世界です。
天の世界には他の幸せを願う者」しか居ませんし、他を利する修行を行っていることから、自分の価値観などはどうでもよい事なのです。
天の世界では他の苦しみを取り除き、楽を与える「抜苦与楽」が使命ですから、立派な学校に行く必要はありませんし、こうでないといけないという特別な方法も存在しません。
温かい「気持ち」が行き交う世界に価値観など必要ないのです。
- 子供が学校に行かなくなった
- 苦労して合格した学校を辞めたいと言い出した
こういった場合には親が子に価値観を押し付けていませんか?
- 会社での人間関係が辛い
- 近所とのトラブルで困っている
こういった場合には自分が持っている価値観が邪魔していませんか?
毘沙門天は良い家族、良い人間関係を築くためにはプライドを捨てなさいと説きます。
プライドを捨てて今を喜ぶのです。
今生きているだけでも有難い事、元気で居ればもっと有難いことなのです。
私達は何時もの場所で同じように生活していると思いがちですが、実は今生きている一瞬一瞬が二度と戻ってくることの無い果てしない旅の途中であることに気付いたら、小さなことでクヨクヨしているような場合ではないのです。
果てしなく大きな旅の途中でほんの一瞬だけ立ち寄っているのが今の自分の本当の姿なのです。
あなたが必死でこだわっているプライドや価値観、一切の執着も死んだら消え去ってしまうものです。
プライドや執着などの正体は何時の世もこの世にぐるぐると渦巻いていて、常に誰かに憑りついて、死んでしまったら離れることを繰り返しているだけなのです。
子供の学校のことにしても、真に子供のことを思うのではなくて、自分の子供に対する夢を叶えるために押し付けている価値観ではありませんか?
天に学べば私達の生活は真の意味で豊かになれるのです。
皆と同じでなくても良い、たとえ落ちこぼれても良い、誰しも生まれた意味が、そして今生きている意味が必ずあるのです。