栄枯盛衰とは
栄枯盛衰とは世の中というものは栄えることもあれば衰えることもあるという意味で、栄えたり衰えたりを繰り返している様を表しています。
栄枯とは
栄枯とは草木が茂ったり枯れたりすることを意味していて、茂ったり枯れたりを繰り返しながらも草木としての生命は続いています。
草は春に種から発芽して葉を広げて伸びていき、夏に太陽の光を充分に浴びて伸び続け、秋に花を咲かせて種を作り、冬に枯れて種を落とす営みを毎年繰り返しています。
木は春に新芽を出して葉を広げて花を咲かせ、夏に太陽の光を充分に浴びて成長し、秋に実を結んで種を作り、冬に枯れて葉と種を落とすことを繰り返しながら寿命が来たら朽ちて、その下には種から発芽した新しい木が育っています。
草も木も私達が何もしなくても茂ったり枯れたりしていますが、私達人間は古来より草木を利用することで豊かな生活を築いているのです。
栄枯は人が栄えたり衰えたりする様子でもあります。
私が理事長を務めるNPO法人やすらか庵での墓じまいでは、御先祖様のお墓が数十も並ぶような立派な先祖代々のお墓があってお盆や彼岸にはとても賑やかだったお墓を、後継者の居ない方の依頼で片付けて更地にし、元の自然に戻していますが、栄えては枯れるのは人間の活動の姿です。
盛衰とは
物事が盛んになったり衰えたりすることを意味していて、企業や会社、地方や国も盛んになったり衰えたりを繰り返しています。
身近な所では近所のスーパー、開店当初はたくさんの人でごった返していたけれど、新しいスーパーが出来たら客足が衰えてしまったということはよくあることです。
お店や会社では繁盛したり衰えたりを繰り返しています。
私達の肉体も若い時には栄えて歳を重ねる度に衰えていき、人類としての栄枯盛衰を繰り返しているです。
我が国の栄枯盛衰
令和7年8月6日付けのニュースで、総務省が発表した1月1日時点での人口動態調査によると、日本人の人口が前年度よりも約90万8千人減少して過去最大の減少となり、来年の2026年には日本の総人口が1億2千万人を下回ると予想されています。
単純計算では亡くなった人が約160万人、生まれた人が約70万人(実際は70万人を切りました)としての差し引き90万人の減少ということになります。
来年は60年に一度の丙午(ひのえうま)の年になり、丙午生まれの女性は気性が荒く、夫の命を縮めるという古くからの迷信があるので出生数の低下は確実であり、未だに新型コロナの脅威が止まることなく、ソーシャルディスタンスの徹底、マスク着用、外出自粛などの影響が残り、人と人との出会いの機会を奪っていることも深く影響しています。
我が国では今や高齢者社会となり、死亡者数は年々増えていくことは間違いありません。
このようなことからも我が国は確実に衰える方向に向かっているのです。
我が国の将来
これからの時代を30代、40代の人達が担っていくことを思えば人口が減っていき高齢者が増えることで若い世代の税負担が増し、工業や商業などの産業の発展よりも衰える方が多くなり、国力の低下、先進国からの脱落、物価上昇に見合わない低賃金、治安の悪化、生活レベルの低下などの問題が次々と襲ってくるのです。
何やら暗くて厳しい将来ばかりしか見えてきませんが、栄枯盛衰は自然の法則であり、釈迦の悟り、仏教の基本は諸行無常で、全てのものが移り変わって永遠に続くものは何も無いという真理があるのですし、私達人間でさえも若くて活気のある時があれば、年老いて静かに過ごす時も来るのですから、これは「来るべき時が来た」ということで対応していくしかないのです。
暗い将来を明るくするには悲観しない事、明るい心を持ち続けること、笑う事です。
今は「悪くなることばかり考えても仕方ない」と割り切り、このような状況であっても何としてでも明るく生きることです。
家族神
毘沙門天は鎧兜に身を固めて外敵から家を護り、妃の吉祥天と子の善膩師童子と共に家族を護る家族神で、たとえどのような状況になろうとも、家族が手を取り合いそれぞれの智慧を出し合って幸せの方向に向かうことを説いています。
七福神の立場では宝船の舵を取り、皆で笑いながら家々に幸せを配ります。
こういう時代を乗り切るにはいくら頭の中で考えてもダメで、たとえ国がどうなっても一人一人が幸せであることが大切なのです。
どんなに小さな国であっても一人一人が幸せであること、こういう時には笑って乗り切るしかありません。
笑うような事が無いというのではなくて、自分で作り出すのです。
もう一つ大切なことは世の中の動向に対して心を静かに保つこと、怒りの感情を抑えることです。
怒りの感情を持ち続けると人を攻撃するようになってしまいます。
悪いことばかり起こる今の世の中で、起こった事に対して自らも怒りの感情を持ち続けると、やがて怒りの感情は増幅して思わぬところで爆発してしまいます。
毘沙門天が足元に邪鬼を踏んでいるのは怒りの心を抑えるためなのです。
私達はこういう時代に生まれてしまったけれど、きっと他の時代に生まれたよりも良かったはずで、少なくとも私達は人間で生まれてきたことに感謝しなければいけません。