愛別離苦とは
愛別離苦とは仏教で説かれる人間の持つ苦しみを表す四苦八苦の一つで、愛する者と別れる苦しみのこと。
出会いは別れの始まり
私達は生きている間にどれだけの人と出会うのでしょうか。
人と人とを繋ぐ御縁である出会いによって自分の知らない世界が開けたり、新しい出会いにつながったりすることで、人生が豊かになります。
人は所詮一人では生きていけないものなので、人と人とが助け合うことで心が豊かになるのです。
しかし良い出会いもあれば悪い出会いもあり、騙されたり傷つけられたりを経験しますと、人を信じられなってしまいます。
昔から出会いは別れの始まりと言いますが、卒業、転職、退職、引っ越しなどを経験する度に悲しい別れを経験しながら人として成長していくのです。
別れは苦しみ
卒業式というものはこれまで慣れ親しんだ学校とのお別れ、そして思い出を共にした多くの友達との別れであり、もうこれで終わりだと思ったら悲しみが込み上げてくるものです。
次なる希望に満ちた人生の歩みのスタートであってもやはりお別れは悲しくて辛いもので、私達は別れの旅に悲しみの涙を流すことを思えば別れは苦しみなのです。
別れの種類
私達が経験する別れには二種類の別れがあり、一つは生きながらに分かれる事で、もう一つは死に別れです。
生き別れ
生きながらに別れることは卒業、転職、退職、引っ越し、失恋、離婚などがあり、お互いに生きている限り絶対に会えないということではありませんが、失恋はお互いに依存する気持ちを失くすことで、離婚は法的に離縁することで、悲しみに満ちた別れもあれば、やっと別れることが出来たと希望に満ちた別れもあるのです。
死に別れ
愛別離苦が苦しいと言われる最大の苦しみが「死に別れ」であり、もう二度と会うことが出来ませんし、愛する人を失った苦しみでもがき苦しむ日々が続くことになります。
自分を支えてくれていた人が突然居なくなってしまったら、心の支えが無くなって、自分一人では何も出来なくなってしまいます。
夫婦である以上、どちらかが必ず死に別れを経験する定めなのですが、お互いの依存度が高ければ高いほど別れの苦しみが大きいのです。
別れの苦しみを乗り越える方法
愛する人が亡くなったという悲しみは耐え難い苦しみであり、決して癒されるようなことはありません。
愛する人が目の前に戻ってきてくれたら、ただそれだけで良いのですが、世の中は諸行無常で全てのものが必ず滅びるという運命を背負っていて後戻り出来ません。
しかし仏教では別れの苦しみを乗り越えるただ一つの方法があってそれは「魂との対話」なのです。
魂との対話
私達の世界は「目に見える世界」と「目には見えない世界」の両方で成り立っています。
目に見える世界の事は私達の肉体に備わっている五感が感じ取った世界のことで、
- 眼で見る
- 鼻で嗅ぐ
- 耳で聞く
- 舌で感じる
- 皮膚で感じる
五感には個人差があるものの、人同士での共通性がありますので、多くの人で同じ世界を感じることが出来ます。
大人数の食事でも料理を眼で見て鼻で臭いを感じ、フォークやスプーンで料理の感覚を感じながら舌で味わえば、皆で共通した料理のおいしさや楽しさを感じることが出来るのです。
愛する人と食事をして楽しいのは、同じ感覚を共有出来るからなのです。
一方魂の世界は神々の世界も該当し、私達の眼には見えない世界で、私達の五感ではなくて心の眼で観る世界であり、私達の眼に見える世界に隣接して存在する世界です。
心の眼は魂が穢れてしまえば観ることが出来ませんので、仏教では魂の穢れを取り除く修行をして神々の世界につながる訓練をしているのです。
仏とは魂の穢れの無い者のことで、仏は私達の眼には見えない仏の世界が観えることはもちろんのこと、私達の世界も観えているのです。
神仏の世界も御先祖の世界も共に私達の目には見えない世界ですから、何も修行していない人は当然亡き人と交流することが出来ませんが、心を綺麗にすることで必ず観えてくるようになるのです。
しかし心を綺麗にすると言っても簡単なことではありませんので、その場合には「祈る」ということをすれば亡き人との交流の近道になります。
亡き人に対して「迷うことがありませんように」そして「私のことを御守り下さいませ」という気持ちで祈り、亡き人のことを思えば、亡き人も同じようにあなたのことを思っておられるのですから、必ずその気持ちは通じるようになるのです。
本当は生きている時にこのような心のつながりが出来ていれば、いざという時に困ることが無いのです。
今からでも出来る仏教の修行としては勤行や写経、瞑想などが良いでしょう。
修行をすることによって、心が豊かになって争いを好まず、人に対して優しくなります。
更には物事に対する正しい判断力が身に付き、人から騙されなくなるのです。