罰が当たるとは
罰が当たるとは悪い行いに対して神仏の罰を受けるということで「天罰を受ける」「神罰が下る」「仏罰を被る」などの言い方もあります。
バチが当たる
毎朝毘沙門天の御勤めで太鼓を叩いてお勤めしていますと、朝と言えども眠い時があってだんだんと頭が太古の方に吸い込まれるように下がっていくことがあって、その時に太古のバチが頭に当たってびっくりして目が覚め、これが本当に「罰が当たる」のではないかと思うのですが、「居眠りなどするな」という天からのお叱りであって、「真面目に修行しなさい」ということなのです。
親が子供のなした悪事の結果として怪我をしたりした時に「ほら罰があたったでしょう」と言うのは、今なした行いに対する結果が分かりやすい形ですぐに出るから、最初から悪いことはしてはいけませんという戒めなのです。
仏教では自業自得
仏教の基本は「自業自得」であり、自分が成した行いの結果は自分で受けるということで、善い行いに対しては善い結果として現れて、悪い行いに対しては悪い結果として現れると説かれます。
但し何時結果が現れるかについては触れられていませんので、すぐかもしれませんし、後になってからかもしれませんし、場合によっては死んでからかもしれません。
死後の世界の審判でも裁かれるのですが、自業自得の原則に変わりはありません。
天罰が下る
私の子供の頃の世代の方は「誰が見てなくてもお天道さまが見てる」といって、たとえば誰も見ていないから物を盗んでも構わないと思うのではなくて、常にお天道さまが天の上から見ているからこそ、陰で悪いことをしてもバレるということを親から教えられました。
当時のテレビ番組にしても勧善懲悪的なものがとても多く、悪いことをしたら罰を受けるという考えを当然のこととして持っていたのです。
悪いことをしたら罰が当たるということ自体が平和な社会を守っていくための掟のようなものですから、その起源は相当に古く、昔話の中にも勧善懲悪ものがとても多いのですから、由来がはっきりしませんが、特に仏教用語と言うことではなくて、昔からの言い伝えと言う方が正しいのかもしれません。
罰を下す神様
果たして罰を下す神様が居るのかと思いますが、仏教にしても神道にしても悪いことをしたからと言って罰を下すような神仏は見当たらないのですが、しいて言えば閻魔大王なのでしょうけれど、閻魔大王は死後の世界の裁判官として六道輪廻の行き先を決めることが仕事なので、この世で罰を下す訳ではありません。
悪いことをしたからすぐに罰が当たるかどうかについては誰も分かりませんが、悪事の結果として罰を受けるということは平和な社会を築いていくために是非とも必要な考えなのです。
街の中に悪いことをする人がたくさん居れば治安が悪くなりますし、安心して暮らすことが出来ませんが、悪いことをする人が居なければとても平和で住みやすい社会になるのです。
悪事とは
罰が当たるようなこと、つまり悪事とは仏教では戒律で決められていて、五戒、もしくは十善戒という戒律を見て見れば、悪事がなんであるかが分かります。
五戒は五つの戒から成り立ち、最も重要度の高い順から並びます。
- 不殺生戒(ふせっしょうかい)…生き物を故意に殺してはならない
- 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)…他人のものを盗んではいけない
- 不邪婬戒(ふじゃいんかい)…不道徳な性行為を行ってはならない
- 不妄語戒(ふもうごかい)…嘘をついてはいけない
- 不飲酒戒(ふおんじゅかい)…酒類を飲んではならない
十善戒とは仏教に於ける十悪を否定する形にした戒律のことで、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見の十の戒律のことです。
悪いことはしていけませんの「悪い事」にもこんなにたくさんの種類があって、守るのが難しそうですが、私もバチが当たらないようにがんばって修行してみます。