暴力について
暴力とは人間同士のトラブルの結果として起こる喧嘩や殴り合いのことで、話し合いではなく力で解決しようとすること。
暴力の種類
暴力は叩いたり蹴ったりなど、力づくで相手を傷つけるものと思いがちですが、暴力には言葉の暴力などの様々な暴力があって、それが暴力だと気が付かない人も居るのです。
私達の行いは仏教的には「身口意」、つまり手や足などの「身」を使った行為と「口」を使った言葉による行為、そして「意」としての心による行為によって成り立ちます。
身による暴力
暴力は絶対にいけないと分かっていても、つい感情的になって自制心を無くし、手を振り上げて相手を叩いたり足で蹴ったりという身体を使っての暴力は男性に多く、夫の暴力に対して抵抗出来ずに怪我を負いながらも耐え続ける妻や、父親の暴力に泣きながら逃げ惑う子供など、近所の人の通報で警察沙汰になることもありますが、大抵は家庭内のもめ事という事で済まされてしまいます。
相手を傷付ける暴力は絶対にいけないことです。
暴力を受けた側とすれば体の傷と心の傷の両方が残ることになるからです。
身体の傷は治療すれば何時かは治りますが、心の傷は決して治ることがありません。
普段は大人しい人が何かのきっかけで突然態度が豹変して暴力を振るい出して止まらなくなることがありますが、何かに取り憑かれたような感じになることが特徴で「憑き物」の仕業と言われたりします。
憑き物とは狐、犬、蛇などの動物の霊が憑り付いて悪さをすることですが、顔つきが動物のようになり、憑りつかれた動物と同じような仕草をすると言われています。
このような世界は確かにあるのですが、程度の低い霊媒師や金儲け霊能力者の所に行けば、除霊と称してお金をぽったくられることがありますので、注意しましょう。
気に入らないことがあればすぐに手を上げる人も多く、自分の考えの間違いを指摘されたり、気に入らないようなことがあれば、すぐに暴力で相手を黙らせる行動を取ります。
暴力で押さえつけられた者は、暴力を恐れるあまり全く言葉を発しないようになってしまいます。
しかし何を言われても無言で居るその態度が気に入らないとの理由で、ますます暴力がひどくなっていくのです。
暴力をする側の心は「虚しい心」です。
暴力で相手を征服しても真の満足は得られません。
暴力を受ける側の心は「恨みと憎しみ」ばかりです。
絶対に許さないという気持ちを持ち続けることで真の幸福は訪れません。
口による暴力
口による暴力とは暴言とも言われるように、言葉で相手を攻撃したり傷つけることです。
言葉を発することで相手の体が傷付くことはありませんが、心が傷付くのです。
言葉の暴力にはいろんな言葉があります
- 死ね
- もっと苦しめ
- 生きている価値無し
- 役立たず
- あなたさえ居なければ
- ここに居られないようにしてやる
- 鬱陶しい
- 邪魔
- 恨んでやる
などの言葉を掛けられ続けますと精神的に参ってしまい、病気になったり場合によっては自殺と言う結果になったりするのです。
言葉の暴力は発してしまえば残るものではありませんが、相手の心の中に何時までも残り続け、言われることが怖い、言われたくない、会いたくないという気持ちになりますし、心の傷は誰にも見えることがありませんので、誰も気付いてくれないし、自分の事を分かってくれる人が居なければ自分だけが孤立してしまうことになります。
心による暴力
心による暴力はとても気が付きにくいものですが、無意識のうちに相手を傷つけているのです。
言葉に出して言わなくても心の中で思っていることは相手に伝わるもので
- あんな奴死んでしまえばいいのに
- 居なくなって欲しい
- 苦しませてやる
こういったことを思うだけで実は暴力なのです。
憎むべき相手に対する復讐を遂げようと思ったら、自分が相手より弱い立場であれば力による復讐は無理なので、呪いを掛けて苦しませるという方法が昔からあります。
丑の刻参りは有名な方法で、人を不幸にしたり、命を奪ったりする呪いの作法で、丑の刻(午前1時~3時)に白装束と一反の帯、下駄履きで、頭には灯した三本のロウソクを鉄輪に差して被って神社に行き、ご神木に呪う相手に見立てた藁人形を五寸釘で打ち込むことを7日間続ければ相手が死ぬと言われています。
私達の心には善の心と悪の心が存在し、常に両方が戦っているのですが、他人の家が火事になってその現場を見た時に「早く消えて欲しい」という仏の心と「もっと燃えろ」という悪魔の心が存在しているのです。
悪魔の心に支配されている人は言葉の暴力や身体の暴力という形で現れます。
そういう意味では私達は普段から心の鍛錬をして、地獄の悪魔の心を持つのではなくて、天の仏の心を持つようにしましょう。
家庭内暴力の対応について
暴力を振るう立場の人の振る舞いを留めることが出来ずに困っている方は多いもので、相談出来る所も無くて困っておられます。
もちろん市の福祉課や警察、児童相談所、内閣府の男女共同参画局などの相談窓口は積極的に利用しましょう。
しかしながら暴力を振るう立場の人は案外、他人の介入を極端に嫌い、自分の暴力を認めないばかりか、相談に行ったということで逆恨みするものです。
逆恨みが怖いが故に相談にも行けないというのが家庭内暴力の本当の恐さなのかもしれません。
悪くなってしまった人間関係を修復することは困難なことではありますが、普段のコミュニケーションが無くなってしまっていることが多いので、挨拶をしたり感謝の言葉「ありがとう」を言う事を試してみて下さい。
感謝することが全くないなどと言ってはいけません。
地獄の心になっているから感謝することが全く無いのであって、仏の心になれば目の前のことが感謝だらけなのです。
家族としてという前に人として「善なる人」となり、相手から何をされようとも恐れることなく、只ひたすらに優しい心で「ありがとう」と言っていれば良いのです。
「ありがとう」と言っても反応が無い、感謝されることが無いと言ってもいけません。
決して見返りを期待してはいけません。
自分がただひたすらに仏の心を持ち続ける事だけで良いのです。
何を期待することも無く、只ひたすらに笑顔で居る事が毘沙門天信仰の基本です。
天の世界は争いごとがありません。
相手のことを思う者ばかりですから、争う必要が無いのです。
私達人間の世界に争いごとが多いのは、相手のことを考えず自分の事しか考えない人が居るからです。
他のために奉仕することは利他行と言い、天の世界の修行法ですが、私達人間の世界でも必要な修行法です。
毘沙門天は吉祥天の妃と善膩師童子の子を伴う家族神ですから、御札を一枚お祀りして礼拝するだけで運気が変わってきます。
毘沙門天の御札を貼ったり、御守りを持ったりするだけで状況が変わってくることがありますから、試してみませんか?
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完全手作りオリジナルですから何処にも同じものはありません。
祈願のコーナーにありますので、ご覧ください…毘沙門天の御札と御守り
神仏の力というものはこういう時に利用させて頂くと良いのです。
但し自分勝手な願いはいけません。
人を幸せにする願いは叶うのです。
絶対に幸せになるという強い信念を持てば、神様はそういう人を必ず応援して下さいます。
暴力を受けた人へ
家庭内暴力に苦しんだ人にとって自分の受けた苦しみは誰にも分かってもらえません。
相手を恨んだり憎んだりする気持ちは人として当然のことなのです。
絶対に許せないという気持ちもよく分かります。
一つだけ言える大切なことは、もし自分に子供が居るとしたら暴力は次の世代に繰り返されるということです。
親から受けた暴力は知らないうちに子供に対して同じことをしてしまう、悪の連鎖が続くのです。
暴力というものは潜在意識の中に深く残りますので、子供や孫にも伝わってしまい、最後には惨めな結果しか残らないのです。
この理屈から言えば先祖から同じことを繰り返しているのであって、不幸の連鎖が起こっているだけのことです。
幸せになれない、不幸が続くのは案外こういう所から来ているのであって、自分達が為したことの結果を自分達が受けているだけなのかもしれません。
こういった不幸は誰かが止めなければいけません。
その不幸を留める役目に選ばれたのがあなたなのかもしれないのです。
そんなこと、勝手に選ぶな!
と思っても構いませんが「お願いだから何とかしてくれ」と頼まれているのかもしれません。
苦しんでいる人を助けるということはとても良い功徳になります。
功徳は亡き人のために役に立ちますが、自分自身のためにも役に立つのです。
徳を積む良いチャンスを与えてもらったと思えば何と有難い事でしょうか。