目次
小欲知足とは
小欲知足とは少ない欲で足りることを知るということで、仏教的な色彩の強い言葉です。
欲望とは
欲望とは仏教では「六根」と言われる感覚や意識を司る器官である「眼・耳・鼻・舌・身・意」が、それぞれ満足するようにとの指令を出し続けることです。
六根については
- 眼…眼で見る
- 耳…耳で聞く
- 鼻…鼻で臭いをかぐ
- 舌…舌で味わう
- 身…体で感じる
- 意…心で感じる
この内6の「意」を除いた感覚を五感と言います。
それぞれの感覚器官については、肉体的或いは精神的に満足するための指令を常に出し続けているので、私達はそれらの器官を満足させるべく行動しているのが社会的な活動なのかもしれません。
たとえば眼で見る物に関して美しい物を見たい、綺麗な景色を見たいなどの欲望に対して満足するために美術館や博物館、テーマパーク、観光地があることで経済が成り立ち、耳で聞くことに関して良い音を聞きたい、感動したいということで劇場やコンサートに人が集まることで経済が成り立っているのです。
欲望は私達人間の経済活動には是非とも必要なことであり、欲望があるからこそ経済が成り立っているのです。
しかし欲望というものは、一時的に満足することはしても、より強い満足を得るような指令が出る仕組みになっていて、私達は知らぬ間に欲望の奴隷になっていたりするものです。
また仏教の世界では私達の住む世界に隣接した三界には
- 無色界…欲望も物質も超越した精神世界
- 色界…欲望を離れた清浄な物質世界
- 欲界…物質に対する欲望にあふれた世界
があり、この中でも私達の住む世界が「欲界」であることから、私達は物質と欲望にあふれた世界で生きていく運命を、生まれた時から既に背負っているのです。
小欲知足の由来
大正新脩大蔵経, 涅槃部, 仏垂般涅槃略説教誡経には
「少欲之人無求無欲則無此患」 … 「知足之法即是富樂安隱之處」
少欲の人は求むること無く、欲無ければ、すなわちこの患い無し … 知足の法は、すなわち是れ富楽安穏の處なり
とあるように、少ない欲の人は患うことなく静穏に過ごすことが出来、少ない欲で足ることを知る法は安楽の境地につながることを説いています。
仏教の信者には「出家」と「在家」があり、僧の集団の中で生活する出家者は完全に欲望を断つことが求められますが、家庭を持ちながら仏教を実践する在家信者は欲望を持ったまま生活しますので、その指標として少ない欲を説いているのです。
釈迦も欲望との戦いだった
仏教の開祖である釈迦も悟りを得る前の瞑想ではありとあらゆる鬼神や欲望が釈迦の悟りを妨げるべく襲い掛かってきましたが、真実の世界を知っている釈迦は一切の事象に実体の無いことを悟っていましたので、邪魔者に対して反応することはありませんでした。
仏教では欲望は捨てなさいと説きますが、悟りに対する最大の敵は欲望なのであって、欲望は私達が高い世界へと行こうとすることを鬼神と共に阻止して私達をより低い世界に落とすことが仕事なのです。
欲望は私達を豊かにする
しかし私達の生活は欲望によって成り立っているのも事実で、欲望があるからこそ少しでも良い生活をしようと努力して、家族が少しでも豊かに楽しくと願って努力している訳ですから、欲望が無いと私達の世界の経済的な発展はありません。
お金だって少しでもたくさんあった方が良いに決まってますし、少しでも良い所で暮らしたい、旅行にも行きたい、おいしい物も食べたい、素敵な人と巡り合いたい…などの欲望があるからこそ皆一生懸命に働いているのです。
これって悪いことですか?
役に立つ欲望
私達の住んでいる世界は元々欲望の世界ですから、欲望は家族や周りの人が幸せになれるための欲望でしたら役に立つ欲望です。
逆に自分一人だけの自己満足の欲望や人を傷つけてしまう欲望、人から奪う欲望は悪い欲望で、役に立ちません。
しかし家族が喜ぶようにとの欲望であっても、度が過ぎて周りに迷惑を掛けてしまうような欲望はいけません。
欲望にもいろんな欲望がありますが、他を喜ばすための欲望は善い事で、自分も他も豊かになります。
欲望があるからこそ足ることを知る
もし欲望というものが無かったら、満足するということが分からないと思います。
欲望を満たされた時に満足するのですから、欲望が無ければ満足する必要が無いからです。
そういう意味では欲望は満足することを知るための大切な材料であり、私達人間の世界で欲望があるのは、満足の先にある悟りの世界を知らせてくれるためなのです。
私達の世界は欲望もあり、その先の満足も、果ては釈迦の悟りの世界へも繋がっていて、更には真の幸せを目指して修行出来る環境を備えた素晴らしい世界なのです。
しかしいきなり欲望を捨てるのではなくて、小欲知足を実践することが修行の第一歩です。
小欲知足のすすめ
小欲知足は仏教の考え方であり、在家の人でも実践できる立派な修行法です。
僧侶は無欲
釈迦の在世当時はから仏教に帰依する出家者である比丘(びく)は修行に専念するべきということで、俗世間の欲望を捨てると共に、自分の物を所有したいという所有欲でさえ捨て去るために一切の所有を認めませんでしたが、唯一修行のために必要な物として「三衣一鉢」のみ所有することを許されました。
つまり自分の持ち物は「三衣一鉢」だけですし、衣についても墓場やゴミ捨て場に捨ててあったぼろ布を縫い合わせて作る糞掃衣(ふんぞうえ)しか認められなかったので、今の日本の僧侶のようにきらびやかな袈裟ではありませんでした。
自分の持ち物を持つことで、もっと良い物が欲しい、たくさん欲しいという欲望が次々と湧いてくるのですから、僧侶の集団に居る限り、皆が平等に自分の持ち物を持たないことで所有するという欲望から解放されるのです。
小欲知足の修行法
欲望は元々人間に与えられたものですから、否定しなくて構いませんが、欲望を満たして満足するだけなら修行になりません、少しの欲望で満足することを実践するのです。
自分の欲望を観察
欲望は否定されるものではありませんが、自分に今、どういった欲望があるのかを観察してみましょう。
電車の中でスマホばかりいじっていないで、たまにはいじるのを止めて目を閉じ、今何をしたいのか、それをすればどうなるのか、しなかったらどうなのか、本当に必要なことだろうか、他にも必要な事は…
などを観察するのです、そしてどうしても必要なものだけを残して実際にに実行し、実行した後で再び心の変化を見てみましょう。
果たして本当に必要だったのか、次回はどうすれば良いのか…
などのことを観察するのです。
瞑想というものは、実際に行動しなくても心の中で行動してみることであり、それで満足することが出来れば心枷豊かになるのです。
満足の正体
私達は欲望が満たされれば満足感が得られますし、満たされることが無ければ満足感を得られることはありません。
私達が欲望を満足させた時の満足の正体は何でしょうか、おそらく心の中で沸々と湧き上がったものが少しの間収まっただけのことでは無いでしょうか。
実際の欲望というものは、先ほど満足した欲望と同じ物、或いはより大きな欲望ががまた沸々と湧き上っては収まることを只繰り返しているだけのことなのです。
満足とは言葉で言えば
- あ~すっきりした
- 気持ち良かった
- お腹一杯
などですが、いずれも湧き上がっては収まるを繰り返しているだけのことで、知らず知らずの内にその欲望はどんどんエスカレートして大きくなっているのです。
何かが欲しいのであれば、「もっと欲しい」「まだ足りない」ということに完全に振り回されているのです。
小欲とは
小欲とは少ない欲です。
私達の欲望は放っておいたらどんどん湧いてきますので、その欲望を満足させようとあちこち走り回ります。
しかしそれらの欲が果たして全部本当に必要なものであるかどうかをよく観察し、少しだけ残して、しかも自分一人たげの満足ではなくて相手や家族と共に満足出来るものにします。
欲望は自分が選ばなかったらどんどん湧いてくるばかりで、欲望の赴くままに生きていたらそれらに振り回されてあっという間に一生が終わってしまいます。
欲望を満足させるだけの人生でしたら、生まれて来た時に頂いた使命を全く何もしなままに旅立つのですから、行く先は絶望的です。
私達は人間の世界に生まれてくることが出来たというだけでとても幸せな事であり、折角の徳を持って生まれて来たのに、その徳を全部使いきって死んでいくだけのことです。
知足とは
知足とは足ることを知ることです。
私達の普通の欲望はどんどんエスカレートして私達を振り回さそうとしますので、その都度満足して足りてしまえばエスカレートすることはありません。
食べる事でもそうです、いつもより少なめで「もうこれで満足、有難う御座います、お互馳走さまでした」と感謝して食事が終わることが出来れば、欲望の鬼神に振り回されることはありません。
- 食べきれない程盛り付けるのは止めましょう
- 人の物まで取って来るのも止めましょう
- 食べきれない程盛り付けて残すことは食べ物に対して大変に失礼です
昔から「腹八分目に医者いらず」と言われますが、満足しきってしまうよりは、少しお腹が空いたなというぐらいの満足にしておけば病気になることは無いという諺なのです。
最も良くない欲望は、たくさん持っているにも拘らず「まだ欲しい」「もっと欲しい」という欲望で、必要の無い物まで欲しがることで、他人が持っている物を欲しがるようになり、強引に取り上げたり、盗んだりして自分の物になることに快感を得るようになったら餓鬼、もしくは地獄の心の持ち主です。
施しの実践
神仏の世界は施しの世界であり、自己満足ではなく他を思う世界なのです、物に対する執着を捨てるためには実際に物を捨てるということやお焚き上げを利用して心の欲望を焼却することも一つの方法です、お焚き上げ供養で心が軽くなった方はたくさんおられます。
施しは災害を受けた方へのボランティアや募金でもいいですし、家族の中でも出来る施しはいくらでもあります。
施しは相手を喜ばせてあげたり、悩み苦しみを取り除いてあげる事、相手のことを真剣に考えてあげる事です
まずは家族の中で施しの実践をしてみませんか。
ケチの実践
昔から僧侶は物を大切に使い、長く使うことを実践してきたことから、昔話にも徹底的にケチな僧侶が登場します。
ケチとは
ケチとは金銭や物を惜しんで人に渡さない人のことで、買わない、今ある物を使い続ける、そして人に対して施さない人のことです。
ケチと言いますと独り占めして他人に施さない人のことを想像しますが、それは単に物惜しみして自分の事しか考えず、世の中に対してはあまり役に立たない悪いケチなのですが、実は世の中に対して役に立つ善いケチもあるのです。
小欲知足のケチとは
増えすぎた人類の社会活動によって地球環境さえも変わってしまい、温暖化の影響で未曽有の災害が頻発している中で、今や豊かさに対する私達一人一人の意識の改革が必要な時代になってしまいました。
エコ、省エネ、省資源の考えが溢れる中で、私達に必要なのは「小欲知足のケチ」であり
- 物を大切に使う
- 使い捨てしない
- 節約する
- 使いすぎない
- リサイクル
- リユース
などの実践が必要なのです。
昭和の時代の人なら、古い人たちがとことん物を大切に使い、衣服でも穴が空いたら当て布を、サイズが合わなくなったら解いて編み直し、作り直しで徹底的に使い、最後には座布団になったり雑巾になったりして役目を終えたら風呂の焚きつけに使われたものです。
食べ物にしても、余ったおかずは次の日に形を変えて食卓に出てきて、最後にどうしても残った食べ物は鍋で焚いて犬のエサになったのです。
僧侶にしても山寺の和尚は毎日の供養の修行の合間に野菜を作り、保存食としての味噌や漬物、沢庵などを自分で作り、お金が無くても檀家さんの御供物で質素に暮らしていたものでした。
物には恵まれてはいないけれど心だけは豊かだった時代は、今よりも地球環境への負担は少なかったのです。
今の時代に必要なのは最小限度の欲で満足し、他人や世の中に役に立つケチ人間なのです。