阿修羅の世界

阿修羅のイラスト

私達の世界の一つ下の世界でありながら私達人間よりも頭脳明晰で賢い阿修羅は、プライドが高く自分が一番だという信念から究極の目標である世界制覇を狙っての争いが絶えない世界です。

その戦い方にしても頭脳戦であり、阿修羅は自らの優秀な頭脳を相手と戦うことばかりに使うので平和が訪れることないために、優秀な頭脳を持ちながらも残念ながら私達人間世界よりも低い世界に位置付けられているのです。

世界の阿修羅化

世界の阿修羅化

本年は五黄の寅年であり、天変地異や大きな変動が起こりやすい年になります。

今世界の情勢を見回してみますと虎視眈々と領土拡大を狙い、果ては世界制覇まで狙っているような国が、新型コロナのどさくさに紛れて様々な圧力を掛けたり、新たな戦争を起こそうとしています。

強国は核兵器や弾道ミサイルなどの最新兵器を持つことで強さを保持していますが、しかしそういった強力な兵器が実際に使われる戦争が起こったとしたら、お互いに壊滅的な被害を被ることは明白です。

核兵器で汚染された領土を略奪しても役に立ちません。

そこで頭の良い指導者はなるべく手を汚すことなく、魔法のようにさりげなく相手の領土を手に入れようと考えるのですが、そういった頭脳を使った賢い戦略こそが阿修羅の戦略なのです。

更に頭の良い指導者は自然災害や流行病などを利用して人々をパニックに陥らせたり、サイバー攻撃を仕掛け、電子マネーを盗み出し、人の考え方まで変えるべく情報操作をすることで、罪の意識なくあらゆるものを手に入れようとしているのです。

阿修羅は武器を持っていますが、実際の戦いは頭脳戦であって血を流すような戦いはしないそうです。

傷付くことが損なことを知っているからです。

阿修羅の心

阿修羅と帝釈天の戦い

しかしながら阿修羅にしても全てが高度な戦いばかりしている訳ではなくて、低い次元の戦いをしている阿修羅も居る訳で、基本的に闘争心丸出しと言いますか戦うことが好きで常に相手のスキを狙っているのですから、阿修羅の世界には安心というものが無いのです。

私達の回りがまさに阿修羅の世界になりつつあることにお気付きでしょうか。

我が国では「戦争をしない、軍隊を持たない」という日本国憲法第九条が今でも有効であり、アメリカの保護のもとに戦後の平和な時代が保たれてきたのですが、周辺国から領土を奪われ、弾道ミサイルが飛んでくる危機に面している中で、新型コロナで甚大な被害を受けながらも自国を守るのが精いっぱいのアメリカに頼っていてはいけないという危機感から「自分の国は自分で守る」という考えが今起きています。

大国アメリカに対して敗戦国として莫大な資金を供給して用心棒として守ってもらっていたのはもはや過去の話であり、今後に於いては我が国の経済力も縮小していくことから、戦後80年近く経過している中でアメリカから独立した独自の考えが必要になっているのです。

周囲の切迫した状況からして平和の国である日本でもついに阿修羅の戦いに巻き込まれ、「やられたらやり返す」「やられる前に攻撃する」といった思想になりつつあるのは仕方のないことかもしれません。

平成は戦争の無い平和な時代でしたが、令和の今は平和ボケから目を覚ます必要があるのです。

欲丸出し

戦争というものは国家としての欲望を満たすもので、欲望の最たるものが国土であり、権力を持つ者の究極の欲望として世界を手に入れることであり、自分の手の上で世界を操る夢を見るのです。

権力者に従う国民にしても国土愛があるために、たとえ非合法的な手段を使って手に入れたにしても権力者を非難することは無く、むしろ英雄として称えられ、それに酔いしれるのです。

権力者達の思考回路に常識など通用するはずが無く「自分の物は自分の物、人の物も自分の物」という考えが案外常識としてまかり通っていたりしますので、真っ当な論争をしても話がかみ合うことがありません。

阿修羅の根本にあるものはプライドですが、相手より自分が優れていることの証として、名誉、権力、国土などを欲しがるのです。

国土に関しては盗ったり盗られたりの争いで、自分が世界を制覇すれば争いが無く、平和な世界が訪れると信じていますので、欲丸出しの自己満足、泥棒の上に成り立つ幻は何時か必ず壊れるのです。

釈迦の本心

釈迦の説法

今から約2500年前の釈迦の時代にも国同士の戦いは日常茶飯事であり、弱い国は強い国に戦いで負けた結果として吸収されるのが当たり前で、まともに戦っても勝ち目のない国は不意打ちを掛けたり、強盗、誘拐、略奪などのあらゆる手段を使ってでも生き残ろうとしましたので、何時襲われるか分からないという恐怖とも戦っていたのです。

釈迦は釈迦は本名をガウタマ・シッダールタと言い、コーサラ国の属国であるシャーキヤ国の国王シュッドーダナを父とし、隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーを母として生まれた王子であり、将来の国王として期待されていました。

釈迦の幼少期はある程度の平和な時代が続いていたのですが、諸行無常、つまり何時までも永遠に続くものは何一つないということに気が付いて自らの国もやがては必ず亡びるという真実が見えた瞬間に、自らが王子であることの意味を失ったのです。

普通でしたら戦いに強くなって生き残るための術を身に付けて強い国にすることが王子としての務めとされるのですが、釈迦はそういう道を選ぶことはありませんでした。

釈迦は悟ることによって今でも多くの人を導き救っているのですから、たとえ家族や国を捨てたにしても偉大な方として歴史に残りますが、釈迦だからこそ戦うことを放棄しても崇められるのです。

しかし私達は釈迦と同じことは決して出来ませんし、家族を捨て国を捨てて修行の旅に出たとしても誰からも相手にされずホームレスとなって路頭に迷うだけなのです。

阿修羅の結末

戦うばかりの阿修羅の世界には決して平和な時間がありません。

何時襲われるか分かりませんし、自分の優位性が崩されるかもしれないからです。

お互いに戦うことによって負けた方は傷付き、勝った方は何時仕返しされるか分からないという恐怖を持ち続けることになるのです。

阿修羅の世界は戦いばかりの世界ですが、私達の世界は今阿修羅の影響を深く受けていて、阿修羅の世界の様相である「修羅場」になろうとしています。

しかし仏法では決して武器を持って戦うことを説きませんし、強力な武器を多く持つことによって平和を保とうとすること自体が無理であることを悟らなければいけません。

たとえ我が国が核兵器を持つようになったとしても、軍隊を持つようになったとしても、いざ戦争になったら喜んで武器を持って戦いに行く勇気がありますか?

戦争というものは核兵器のボタンを押せばそれで終わりではありません。

誰かが行ってくれるのではなくて、自分が行かなければいけないのです。

戦争に行くことは「死ぬこと」と「家族に会えなくなること」を覚悟しなければなりません。

そして「人を殺すこと」や「人を傷つけること」をしないと自分がやられてしまうのです。

仏教として最も重たい罪である殺人はたとえ国のためだという大義名分があったとしても最終的には自らが犯したことなので、重罪に変わりはないのです。

戦争とは地獄の底でお互いが足を引っ張り合って堕としあうだけの悲惨な世界なのです。

阿修羅の世界の中では真の幸せになることは出来ない、たとえ何かを奪い取ったにしても一時的な満足はあれども、決して幸せにつながることが無いのです。

それが大宇宙の原理であり、欲望や願望で動いている訳ではないのです。

私達がするべきこと

平和な時代は終わったと肝に銘じ、これからの時代は生活に支障をきたすような大きな災害や災難が襲ってくることを覚悟して、物と心の準備をしておきましょう。

平和な心を持つ

ありがとう

少なくとも自分とその周りだけでも平和な状況を作り出しておき、仏教的に正しい生活をし、罪を犯して魂を汚さないようにしましょう。

戦いや争いは自分が参加しなくても、賛成したり戦おうと思うだけでも同罪です。

戦争は国全体の人々の魂を汚してしまい、私達の世界を地獄や餓鬼、阿修羅の世界に変えてしまいます。

万一世の中が有事になった時には、それに対応するしか他に方法がありませんが、せめて自分の心だけは平和な心を持ち、平和を願う心を持ち続けましょう。

私達の心の中には地獄から天界までの六道の全ての世界が存在して、心の持ち方によっていずれかの世界がこの世に形成されてきます。

心が地獄に繋がった人は地獄の世界が目の前に広がり、心が天界に繋がった人は天の世界が目の前に広がります。

全ては自分の心の持ちようで決まるのです。

国家は一人一人の人間の集合体であり、世界は国家の集合体であることから、一人一人の人間の心の持ち方は世界を変えていくきっかけになります。

一人でも多くの人が天の心を持てば良いのです。

命を大切に

ありがとう

真言宗の標語である「生かせいのち」は弘法大師空海の教えを端的に表したもので、頂いた命に感謝すると共に、生かすための方法が仏教なのであって、自分の命はもちろんのこと、他の命まで生かすことが私達に与えられた使命なのです。

地球上のありとあらゆる命に対して慈しみの心を持ち、育む心を持てば一切の争いが無くなります。

私達は地球上の動物界では強者ですが、驕り高ぶることなく、あらゆる命を大切にするという使命が与えられているのです。

毘沙門天も同じく外敵を防ぎ命を守る立場として家族を守り外敵は防ぐけれど、決して攻撃をしたり相手を傷つけたりはしない「守り」の守護神なのです。

釈迦ですら修行中は多くの魔物と戦っていて、あらゆる手段を使って攻撃したり修行の邪魔をされたのですが、釈迦は全く動じることなく、最後には全ての魔物が消え去ったことから「真の勝者」なのです。

私達は与えられた命を大切にすることで、命の意味と目的が見えてくるはずです。

混乱の時代にこそ毘沙門天信仰

毘沙門天の守護

毘沙門天は古より戦いの神として信仰されていますが、その戦いとは相手を滅ぼす戦いではなくて、困窮の人を救うための戦いなのです。

戦国武将の上杉謙信は熱狂的な毘沙門天の信者で、戦いの時には毘沙門天の「毘」の文字が書かれた旗を持って戦い、武田信玄と並んで戦国時代の最強の武将に数えられます。

馬に乗る上杉謙信のイラスト

一説によると70の戦の中で2敗8分とも言われ、正確な勝敗は分かりませんが、負け戦がほとんどなかったそうです。

深く仏教に帰依した上杉謙信は弘治元(1555)年には大徳寺の門を叩き、「宗心」の号を名乗るとともに「三帰五戒」の戒律を授かっていますが、「三帰五戒」とは、仏・法・僧の三宝に帰依し、不殺生(殺さない)不偸盗(盗まない)不邪淫(淫らなことをしない)不妄語(嘘をつかない)不飲酒(酒を飲まない)の五戒を誓ったのです。

このような信仰が上杉謙信の思想に深く影響し、義の道を貫き、他を侵略する戦いは行わずに他国の救援と言う目的でのみ戦うことに繋がっていると思われます。

毘沙門天信仰は、たとえ戦の世の中にあっても仏法を守り、困窮に苦しむ人の救済のために戦う人を応援し、力を授けて下さる信仰なのです。

周囲がたとえどのような状況であろうと、混乱の世の中であろうとも、信仰心を失わずにいれば、必ずや神仏は守って下さるということの証なのです。

幸せを作り出すために戦っている姿が毘沙門天の姿なのです。

阿修羅は元々は天界の住人でありましたが、帝釈天が同じ天界に住む阿修羅の娘シャチー(舎脂)に一目ぼれして連れ去ったことから、阿修羅は激怒して数多くの戦いを挑むも負け続け、最後には戦いの鬼となってしまったことから天界から追放されて、人間界よりも低い阿修羅界の住人となり、阿修羅界を支配するようになったそうです。

阿修羅の心は元々天界の心であったのですから、魂のレベルを上げれば天界に通じることが出来るのです。

死なない負けない家絶やさない

毘沙門天と青空

毘沙門天は戦いに勝つことよりも、負けない事を説いて居られます。

私の毘沙門天の師匠はいつも毘沙門天の教えとして「死なない負けない家絶やさない」と口癖のように言って居りました。

人間は必ず何時か死にますが、それでもその時までは絶対に死なないという心を持つこと。

何があっても絶対に負けないという強い心を持つこと。

そして家族を大切にして家を絶やさないこと。

この心を忘れないことが大切なことです。

意思表示の大切さ

世の中勝つ人も居れば負ける人も居ます。

誰でも時には負けることがありますが、実際の勝負に負けたとしても、心の中まで負けることなく、その負けをバネにして次の勝利に必ずつなげていくことこそが「負けない」ことなのです。

私達より年配の方々は皆、戦後の敗戦の悔しさを持ちながらも頑張れば必ず豊かになれる、幸せになれると努力してきた結果としての平和な時代があったのです。

今は戦争の体験をした人が高齢となり、どんどん減っていくばかりで、周囲には戦争の生き証人が居ない世の中になりつつあります。

戦争を知っている人達は自分達も戦争に駆り出されて身内の人を失くし、貧乏の極致の苦しい生活をしてきたので、戦争の恐さを恐れると共に、平和の有難さを訴えかけています。

そして戦没者も含めて戦争の経験者は皆「もう戦争はしたくない」という言葉を発して居られるのです。

戦いはしてはいけません、しかし負けないことはとても大切なことです。

決して負けないためには、正しいことは正しいと言いましょう、そしてダメなことはダメだとはっきり言いましょう、間違っていると

戦争はダメだという意思表示をしないことは戦争を認めていることと同じこと、ダメな指導者が居る国では本当はその国の国民が指導者に対してダメだと言わないといけないのです。

意思表示をすることはとても大切なことで、家族の中でも何も意思表示することなく淡々と過ごしていたら、何時の間にか家族の気持ちが離れてしまい、バラバラになってしまいます。

そしてたとえ意見が食い違っていても尊重することも大切です。

そして世の中が平和になるには阿修羅の世界から抜け出して天の心を持つことです。

一人でも多くの人が天の心を持つようになれば、そこから平和が広がっていくのです。

まずは善と悪の区別をはっきりさせて、善に対しては称賛し、悪に対しては「それは悪いこと」と意思表示致しましょう。

「誠に残念」とか「遺憾です」と言うのは気持ちを述べているだけであって、仏教に於いて大切なことは「正しい」か「間違っている」かだけなのです。