報復、復讐とは

戦車のイラスト

報復、復讐とは相手から受けた不当な行為に対して仕返しをすること。

やられたらやり返す

「やられたらやり返す」「目には目を歯には歯を」などの復讐の言葉がある裏には、自分が受けた不利益に関しては同じような仕返しをするのが当然だという考え方に基づきます。

本来であれば自分が受けた不利益は公の機関である警察に届けて公平な立場で調査してもらい、罪と罰に関しては自らが相手に下すようなことほしてはいけません。

しかし私達の日常の中ではたとえば子供同士でおもちゃの取り合いの喧嘩にしても、やられたらやり返すようなことは日常茶飯事起こっていて、会社の中でも自らの立場を少しでも良くするために、やられたらやり返す戦いが日常的に起こっているのです。

TBS日曜劇場で2013年7月から放送された堺雅人主演の「半沢直樹」は銀行を舞台にした人気のあるドラマで、人事や取引などで起こった様々な問題に対して立ち向かう半沢直樹の姿が人気を呼んで高視聴率をたたき出し、「やられたらやり返す、倍返しだ!!」、「クソ上司め、覚えていやがれ!!」などの言葉が流行語になりました。

競争社会の中で騙されたり貶められたりして散々ひどい目に遭った半沢直樹が最後に復讐するシーンで一気にストレスが解放された、スカッとしたと感じた人が多かったのではないでしょうか。

時代劇でも暴れん坊将軍の「天に代わって成敗いたす」などの言葉に見られるように、悪人がはびこる社会で苦しみ続ける庶民を救うために、正義の味方が現れて悪人に天罰を下すという結末は、見ていて実にスカッとするものでした。

敵討ち

敵討ち(かたきうち)とは我が国における中世の武士階級の制度で、主君や直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行うことが認められていて、江戸幕府によって法制化された制度でもあります。

つまり主君や直接の尊属を殺害した者に対して殺害することが合法的に認められていたのです。

現代社会ではいかなる理由があろうとも個人的に相手を成敗するということは認められていませんが、卑劣な方法で意味なく殺害された被害者の家族の者の感情としては加害者を「自分の手で同じように殺害してやりたい」という気持ちになるものです。

仮に加害者が死刑になったとしても被害者の家族の気持ちが収まるのではありません。

恨みや憎しみの感情がピークに達すると、自らの手で成敗しないと被害者が浮かばれないという気持ちになるのです。

敵討ちは今では認められていませんが、大なり小なり私達の国民性、或いは正義感として持っている感情なのかもしれません。

喧嘩両成敗

先ほどの敵討ちは「喧嘩両成敗」(けんかりょうせいばい)の思想によるもので、喧嘩した者同士はどちらも悪いので、成敗されるべきだという思想です。

喧嘩両成敗は私達日本人の道徳観として深く根付いている思想であり、どちらかが一方的に悪いのではなくて、喧嘩を仕掛けた方も受けた方もどちらも非があるという考え方です。

交通事故の裁判にしても結果として両者の善悪の比率を決めることで決着がつけられ、もちろん例外的な事例もありますが、たとえば車同士ならお互いが動いている限り、どちらも悪いということになるのです。

喧嘩両成敗ということは、売られた喧嘩に対しては買った方も同罪ということになりますので、喧嘩を売られたにしても買わないことが罪を作らない方法です。

仏教的考察

報復や復讐は自分に対して行われた不都合に対して、自らの手で仕返しをすることですが、「やられたらやり返す」ことを仏教ではどのように解釈すれば良いのでしょうか。

因果応報の法則

因果応報のイラスト

因果応報とは仏教用語であり、物事には原因があって結果があり、原因に応じた報いを受けるということです。

良い行いをすれば良い結果が現れ、悪い行いをすれば悪い結果が現れます。

それともう一つ自業自得という考え方があって自分の為した行いの結果は自分が受けるということです。

この二つは仏教の根幹をなす大切な原理ですから、自分の為した悪業は何時か必ず自分が受けるということになりますので、相手から悪業に相当する不都合なことをされたにしても、その罰は悪業を働いた本人が受けるということですから、別に仕返しする必要はないのです。

天罰というものは、天が罰を与えるということですが、誰かが罰を与えなくとも、自分の行いに対しては自分にその結果が現れるというのが仏教的解釈なのです。

復讐も罪である

如何なる理由であれ自分に対して為された悪業に対しての復讐は罪であります。

ですから「やられたらやり返す」も「倍返し」も罪であることに変わりはありません。

罪は作れば作るほど魂のレベルを落としてしまいます。

長い長い魂の旅をしている私達の魂は、落ちてしまえば苦しむばかりで中々上がることが出来ません。

私達の生きている時間はほんの少しだけなのに、魂のレベルを落としてしまえば、果てしない苦しみが待っているばかりです。

生きている限りは悪業を積むことなく、善なる行いをなるべく多く実行できるように心掛けたいものです。

復讐の連鎖

復讐はまた次の復讐を必ず生み出します。

「やられたらやり返す」に終わりはなく、何時までも繰り返すだけなのです。

復讐を遂げた者はそれで満足しますが、復讐された者としては新たな復讐心に燃えるのです。

次々と原因不明の不幸が起こり、心配になって訪れた霊能者に霊死してもらったら、非業の死を遂げた先祖が居ると言われて供養のためと多額のお金をぼったくられた。

インチキ霊能者がたくさん居て、普通の人には見えない霊の世界を利用して困った人からお金を巻き上げていますので注意が必要です。

インチキ霊能者自体が低レベルの霊のようなもので、こういう者に騙されること自体、復讐の連鎖に完全にはまっているのです。

天の世界では

天の世界

天の世界では相手の幸せを願い相手の喜ぶことはするけれど、相手を恨んだり、されたことに対して仕返しすることはありません。

もちろん相手に都合の悪いことはしませんので、仕返しする必要が無いのです。

仕返しと言うものはそもそも、欲望と悪業に満ちた私達人間世界ならではのものですから、天の世界ではそういう心配が無いのです。

毘沙門天は足元に邪鬼を踏んでいますが、邪鬼は元々悪事ばかり働いて嫌われ恐れられていた存在だったのです。

しかし毘沙門天に教化されて改心した邪鬼は毘沙門天の使いとして働くようになり、その証として毘沙門天の足元で毘沙門天を支えているのです。

毘沙門天は時には地天に支えられていることからも邪鬼の役割がよく分かります。

仏法というものが大宇宙の法則であることから、従わないと最終的には自分に跳ね返ってくることを知っている者は大宇宙の法則の前ではたとえ鬼であれ仕返しすることが無駄であることを知っているのです。

毘沙門天が邪鬼を踏んでいるもう一つの理由は「怒り」を抑えることです。

忿怒の顔の毘沙門天は怒りの表情をしていますが、何かに対して怒っているのではなくて、邪鬼を踏むことによって怒りを鎮めているのであり、邪鬼は怒りの象徴でもあるのです。

たとえ怒りの心でメラメラと燃えることがあっても、怒りを抑える事が家族でうまくやっていく、そして世界が平和であるための秘訣なのです。