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幸せとは
私達は病気や怪我が無く、苦しみの無い楽しくて「幸せ」な人生を歩みたいと願っていますが、そもそも「幸せ」って何でしょうか。
幸せの反対は
「幸せ」を考えるのなら、その反対語である「不幸」を考えればたくさん思いつきます。
不幸とはどういう状態でしょうか
- 病気をしている
- 怪我をした
- 事故に遭った
- 火事で家が焼けた
- 恋人にフラれた
- 試験に落ちた
- 会社を首になった
- 仕事で失敗した
- 離婚した
- 喧嘩した
- 台風で家が壊れた
- 水害に遭った
- 会社が潰れた
- 家族の者が亡くなった
- 詐欺に騙された
- お金を落とした
などのことがいくらでも思い付き、実際にこのようなことで苦しんでいる人がたくさん居るのです。
不幸になれば精神的に辛い、苦しいのはもちろんのこと、肉体的にも苦しい症状が出たりするものです。
私達は辛いことや苦しいことは大変に嫌な事なので、出来れば不幸にはなりたくないというのが人情であり、普通の人の考えなのです。
場合によっては辛いことや苦しいことが好きな人も居ますが、厄病神や貧乏神に憑りつかれたも同然で、自分の不幸よりも人の不幸が楽しくて仕方ないということになります。
人の不幸が楽しくて仕方ないと思うようになったら、幸せから遠ざかっていくばかりです。
厄病神や貧乏神に憑りつかれたり、自分自身が厄病神や貧乏神になってしまったら不幸路線まっしぐらで、落ちていくばかりの人生になります。
幸せな人とは
幸せな人とは「不幸ではない人」ということになりますので、先ほどの不幸の具体的な内容を全部反対にしてみますと
- 健康である(病気をしている)
- 身体は健全(怪我をした)
- 常に安全(事故に遭った)
- 家は何事も無い(火事で家が焼けた)
- 恋人と仲が良い(恋人にフラれた)
- 試験に合格(試験に落ちた)
- 昇格した(会社を首になった)
- 企画が成功した(仕事で失敗した)
- 夫婦仲が良い(離婚した)
- 心が穏やか(喧嘩した)
- 台風で何事も無かった(台風で家が壊れた)
- 自分の家は何事も無かった(水害に遭った)
- 会社が繁栄している(会社が潰れた)
- 家族は皆元気(家族の者が亡くなった)
- 投資が成功した(詐欺に騙された)
- 貯金が増えた(お金を落とした)
不幸な人の場合には自分が落ち込みますし、誰が見ても不幸だと分かるものですが、不幸を逆にしても普段とは違う特別な状態であるという感じがしないものです。
たとえば病気になったら辛くて苦しくて、早く元気になりたいと願うものですが、いざ元気になったら、あまり健康の有難さを感じないものです。
恋人にフラれてしまったら不幸のどん底で悲しい思いをしますが、うまくいっている時にはさほどの幸福感は感じないものなのです。
幸せは物ではない
幸せはお金で売り買いすることが出来ませんので、お金を出せば幸せになる、何かを買えば幸せになるというのは怪しい誘いです。
幸せという物がどこかに行けば有る訳ではありませんので、ここに来れば幸せになる、今あなたがいる所では幸せになれないという話は信頼できません。
そして幸せは物ではありませんので、決まった形がありません。
幸せは感じるもの
幸せは自分自身が「幸せ」だと感じた状態のことです。
幸せの状態とは
- 喜び
- 嬉しい
- 楽しい
- 満足した
- 穏やかな
状態のことで、自分自身がそのような状態であると感じている瞬間の事なのです。
幸せは続かないもの
愛する人と結婚して幸せだと思っていたけれど、毎日生活していたら幸せを感じなくなってしまった。
会社で昇格して幸せだと思っていたら責任の重さに耐えきれず、精神的に病気になってしまった。
などのことで分かるように、幸せというものは、決して何時までも続かないものです。
幸せを感じた人は「何時までもこの幸せが続いて欲しい」と願っても、続かないものなのです。
幸せの基準は人によって違う
お金が無くても家族が元気なら幸せだと思う人も居れば、家族は皆元気でいるけれど、お金が無いことで不幸だと思っている人も居るのですから、人によって幸せの基準は違います。
似たような状況の人であっても幸せだと感じる人と不幸だと感じる人の違いは、最終的には自分で決めることであり、幸せの基準を上げたり下げたりするのも自分次第なのです。
幸せの基準が低い人であればどんなことでも幸せになりますが、幸せの基準が高い人は中々幸せと感じるようなことが無いのです。
幸せになるには
嬉しいと思えること、楽しいと思えることは人としての大きな幸せですから、出来る事なら幸せになりたいものです。
幸せの質
幸せに質と言いますかレベルと言うものがあるとしたら、私達が生活の中で普通に感じる「今日も一日無事に終わって良かった」ということで家族揃って夕食を頂くようなことを普通の幸せだとしてみます。
私達の毎日の生活の中での幸せはこういった普通の幸せの繰り返しであり、人によっては幸せ感が薄いにしても、普通の人の普通の幸せなんてこんなものなのです。
実は幸せにはもっとレベルの高い幸せがあって、釈迦はその幸せのことを知ってしまったが故に王子の身分も家族も全て捨てて出家して修行の道を選んだのです。
釈迦の目指した幸せとは永遠に尽きることの無い幸せ、至福間に包まれた最高の幸せでありそれは「悟り」という幸せであり「解脱」と言う場合には、私達が生まれ変わり死に変わりを繰り返している苦しみの世界の六道から解き放たれて脱出し、永遠の幸せの世界に到達することなのです。
この最高の幸せである「悟り」はこの世の中にある幸せとは比べ物にならないほど質の高い幸せであるからこそ、釈迦は全てのことを捨てて挑んだのです。
幸せは作り出すもの
釈迦の悟りに至るには何もかも捨て去って修行の道を歩んだところで私達凡人が到達できるようなものではありません。
そういう意味では私達は人間としての幸せを追求した方がまだ現実的ですし、人として生まれたのですから、まずは人として幸せになることが大切なことなのです。
釈迦の幸せである悟りに至るには出家して修行する必要がありますが、在家の私達が人として幸せになるにも修行するとしないでは、大いなる違いが出るのです。
それでは幸せになるのに何故修行が必要なのでしょうか。
それは幸せというものは心の中で作り出すものであるからです。
私達の心が幸せだと感じていれば、幸せで満たされます。
私達の心が不幸だと感じていれば、不幸に満ち満ちているのです。
幸せのイメージ
人によって幸せのイメージは違いますから、自分がなりたい幸せのイメージを心の中で作り出しましょう。
付き合っている人と結婚して幸せになりたいのであれば、その人と一緒に暮らしているイメージを心の中に作り出すのです。
不純なイメージはダメです、相手を大切にする、相手をいたわるイメージを持ち続けるのです。
心の中のイメージは強く念じれば念じる程、形となって現れます。
「祈り」もそうです、強く祈れば祈るほど願いが成就するのです。
「イメージは形になる」ことは大宇宙の法則でもあり、幸せの世界を作り出したいとイメージして、イメージを膨らませていけば、実際の形が出来てくるのですから、私達の世界も人々のいろんな思いやイメージが元になって出来ているのです。
神様に頼んでみよう
人として幸せになることは悪いことではありません、むしろ人として幸せになることは、真の幸せの道につながっているのです。
幸せを知らない人に真の幸せは作り出すことは出来ません。
そういう意味で最も早く幸せになる方法は神様に頼んでみることです。
しかし只頼むだけでは図々しい頼みは聞いてもらえないもので、必ず人のために役に立ちますからという条件の元に頼んでみるのです。
神様に願う時には
- 必ず人様のお役に立てるように致しますから○○を叶えて下さい
- 困った人を助けるために○○を叶えて下さい
このように願ってみて下さい。
最も頼みやすい神様はやはり毘沙門天様で私達の近い所に居られて妃の吉祥天、子の善膩師童子と共に家族の姿をされていますので、家庭の事、友達の事、仕事の事など、どんなことでも聞いて下さるのです。
但し自分勝手なお願いは厳禁です、人を幸せにするためのお願いなら大丈夫です。
他を利することを説いて居られます…利他行のすすめ
ここで最も大切なことは、たとえ自分が幸せを感じるようなことが無くとも、生きているだけでも幸せだと感謝することです。
食事を頂けるだけでも幸せ、呼吸が出来るだけでも幸せと感謝しましょう。
世の中には神様とのお付き合いの仕方があるもので、
「いつも守って頂いて幸せで御座います」と祈ればもっと幸せを運んできてもらえます。
「いつも幸せを有難う御座います」と祈ればもっと幸せになります。
神様とのお付き合いが下手な人は、
「家族の中で私だけ幸せにして下さい」
「貧しくて困っていますからお金を下さい」
このような頼み方をしても効いてもらえないのです。
また頼むだけ頼んで自分の努力が無い人は嫌われます。
一度毘沙門天の御札をお祀りしてみませんか、そして御守りを持ってみませんか。
神様に近づくための、そして守ってもらうための一番手軽な方法ですよ。
業者から買ってきたものではありません、全て手作りで朝一番で祈願したものをお送りして、送料込みで500円で気軽に買えますよ。
毘沙門天の御札は…毘沙門天御札-個別祈願で郵送-奉納料5百円
毘沙門天の御守りは…毘沙門天御守り
一人でも多くの人に幸せになって頂きたいとしていることで御座います。
私は毎日必死の思いで拝まさせて頂いて居ります、その気持ちが伝われば幸せなことで、とても有難く思います。
幸せはなりたいという気持ちがあれば誰でもなれるのです。