悪人正機とは

禅海和尚のイラスト

浄土真宗の開祖である親鸞の根本をなす教えで、阿弥陀如来の本願は罪深い悪人を救済することであり、悪人こそ救済にふさわしい者であると説きます。

世の中悪人だらけである

地獄のイラスト

親鸞の「歎異抄」(たんにしょう)には後世に残る有名な言葉として「善人猶以て往生を遂ぐ況んや悪人をや」と説かれており、他力を頼みとしない善人でさえ往生出来るのだから、他力を頼む悪人が往生出来ない訳がないという意味です。

ところで世の中の人を善人と悪人に分けたとしたら果たして完全に善人であるという人は居るでしょうか。

善人とは悪行を行わず、善なる行い(善行)をする人のことです。

俗世間には良い行いをする人もたくさん居ますが、そういう人であっても大なり小なり悪行の一つや二つはしているもので、場合によっては自らの悪行に気が付かない人もいるのです。

ちょっとした嘘なら許されるだろう、悪い事ではあるが皆がしていることだから、などの理由で嘘をついたり騙したりすることは日常茶飯事ですよね。

完璧な善人はまずいないでしょうから、そういう意味では世の中悪人だらけということになるのです。

戒律を守るのが善人

殺生のイラスト

仏教の世界では仏教徒として守らなければいけない戒律というものがあって五戒十善戒などがあるのですが、真面目に守ろうとすると実はとても難しい戒律であることに気が付きます。

最初の戒である不殺生戒を忠実に守るには虫を殺してもいけませんし、肉を食べてもいけません。

殺生とはありとあらゆる生き物の命を奪うことですから、厳密にいうと動物の剥製を飾ったり動物の毛皮を着ることもいけないのです。

会社のボールペンが家に置いてあったら盗みの罪(不偸盗)になり、自分の失敗を他人のせいにすると嘘つきの罪(不妄語)になりますので、仏教徒として仏門に入った時点で守るべき戒律でさえ守れないのなら、修行する気持ちさえ失せてしまうことでしょう。

歎異抄で親鸞が29歳の時に述べた「いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし」は、親鸞がこれまでに真剣に行ったどのような修行も満足に行えない私であるので、地獄こそが我が住処になっているという意味ですが、仏道を極めれば極める程自分一人の力では往生など到底出来ないので、自分自身の修行で往生することは諦めて、阿弥陀如来の救いにすがるしかないと悟ったのではないでしょうか。

信仰とは信じること

僧侶の説明のイラスト

私一人の力ではどうにも出来ない愚か者ですから、阿弥陀如来であれ大日如来であれ、どうかお救い下さいませと頼るのが信仰であり、自らの身を投げ出して、「信」じること、そして上を「仰」ぐことなのです。

しかし信じるだけで後はお任せということではなく、浄土宗なら念仏、日蓮宗ならお題目、真言宗なら真言という修行があるのですから、自らの努力もまた必要なのです。

確かに今の世の中学校でも会社でも地方、国の単位でも悪人だらけで、毎日暗いニュースばかりが流れてきます。

しかし周りが悪人ばかりだからという理由で自分まで悪人になる必要はありませんし、悪人を批判していても仕方ありませんが、善人になり切れないという自分を素直に認めて正しい信仰心を持つことが今の時代に是非とも必要なことなのです。